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悼平皇后 悼平皇后(とうへいこうごう、? - 1149年12月13日)は、金の熙宗の皇后。姓は裴満氏(はいまんし)。太祖の妻の一人で遼王宗幹の母のと同族である。 == 生涯 == 婆盧木部の人。裴満忽達の娘。母は元は北宋の済王趙栩〔徽宗の七男(夭逝を除いて第5皇子)〕の側室だったという。 熙宗が即位すると、貴妃となった。天眷元年(1138年)、皇后に立てられた。大いに寵愛を受け、皇太子を産んだが夭折した。 金宗室の完顔宗翰、完顔宗弼らの死後、政治に干渉することが多く、宰相の人事も左右し、高飛車な性格で熙宗にさえ不遜な態度を取った。権勢にあやかろうと様々な献上物が争って皇后に贈られ、特に珍しいものを贈った地方官はそのために昇進した。近侍の高寿星が熙宗の命により燕南にうつされそうになったので、皇后に訴えると、皇后は怒りにまかせて左司郎中の三合を殺し、平章政事の完顔秉徳を鞭打って、高寿星の異動を阻止した。また、完顔亮(海陵王、宗幹の子)に甘いとの噂も立った。結局、熙宗からは信頼を失い、他の妃嬪が寵愛されるようになった。皇統9年(1149年)11月5日、皇后は熙宗と諍いを起こし、熙宗は怒って皇后を誅殺した。 翌月、海陵王によって熙宗は弑逆され、東昏王に格下げの上で葬られた。しかし、裴満氏は「悼皇后」と諡され、忽達は郡王の位を授けられた。大定元年(1161年)、海陵王を廃して即位した世宗によって、裴満氏は「悼平」と諡を改められ、熙宗と合葬された。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「悼平皇后」の詳細全文を読む
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