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悼恵王 : ウィキペディア日本語版
劉肥[りゅう ひ]
劉 肥(りゅう ひ、? - 紀元前189年)は、前漢皇族前漢時代の諸侯王である斉王諡号悼恵王
== 生涯 ==
劉邦(高祖)の庶長子。生母は曹氏。
紀元前201年、斉王から楚王に国替えされた韓信(淮陰侯)に代わって、広大な斉領は漢の宗室(劉氏一門)で、劉邦の子のうち成人に達した劉肥は斉王に封じられ、歴戦の将の平陽侯・曹参を宰相に配された。ここに劉肥は70余城を抱える斉の統治を委ねられることになった。紀元前196年に淮南王英布が反乱を起こした際には、親征した高祖に従い、曹参を副将に12万の軍勢を率いて従軍している。
紀元前195年、高祖が崩御し、自らの異母弟にあたる劉盈が即位(恵帝)すると、劉肥の立場は微妙なものになってゆく。高祖の寵愛が厚かった戚氏の子・趙王劉如意が恵帝と皇太子の地位を熾烈に争った一件があって以来、恵帝の母・呂太后は宗室に対して深い疑念を抱くようになっていた。劉肥の母・曹氏はその出自が伝わらないほど取るに足らぬ存在だったが、それでも劉肥は高祖の長子にして恵帝の兄であり、呂太后にとってその存在は心安らぐものではなかった。
紀元前193年、劉肥は長安の宮廷に参内、その儀式一切が無事終了した後、恵帝と呂太后に宴席に招かれる。この時恵帝は「宮中では、皇帝と臣下ということで、何かと堅苦しいものになりましたが、今は身内だけなので、もっと打ち解けたものにしましょう」と言って、高祖の長子である劉肥が恵帝の上座に座ることとなった。しかしこれが呂太后の不興を買ってしまう。劉肥はそうとは知らずに毒入りの酒を飲まされそうになるが、この時は恵帝のとっさの機転で(恵帝自らが毒杯を手にとることで、劉肥に飲ませなかった。恵帝が毒杯を手にしたことに呂太后はあわてて、これを捨てさせた)難を逃れた。後にこのことを知った劉肥は臣下の助言に従い、その領地から城陽郡を呂太后の娘で、自身の異母姉妹にあたる魯元公主の化粧領として差し上げたいと願い出て、これでやっと呂太后の歓心を買い難を逃れることができた。
紀元前189年に薨去。
なお、紀元前180年に起きた呂氏一族打倒のクーデターにおいて、劉肥の長子の哀王・劉襄と次子の朱虚侯・劉章(城陽景王)は大きな役割を果たした。また紀元前154年に起きた呉楚七国の乱では、謀反を起こした7人の王のうち4人までが劉肥の子だった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Liu Fei 」があります。



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