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愛天丸(あいてんまる)は、大日本帝国海軍の特設運送船(給油)。太平洋戦争最末期に「第二江之島丸」(だいにえのしままる)と改名した。 元はオランダのタンカー「アルデゴンダ」 () で、太平洋戦争劈頭に自沈後、日本軍の手によって引き揚げられて「愛天丸」として再生され、スマトラ島とシンガポール(昭南)間の石油輸送にあたった。戦争最末期、輸送ルートが途絶した南方から何としてもガソリンを還送するため、日本軍は約1万海里におよぶ奇想天外なルートを策定して「愛天丸」改め「第二江之島丸」を日本に差し向けたが、間もなく終戦を迎えて大航海は幻に終わった。'') で、太平洋戦争劈頭に自沈後、日本軍の手によって引き揚げられて「愛天丸」として再生され、スマトラ島とシンガポール(昭南)間の石油輸送にあたった。戦争最末期、輸送ルートが途絶した南方から何としてもガソリンを還送するため、日本軍は約1万海里におよぶ奇想天外なルートを策定して「愛天丸」改め「第二江之島丸」を日本に差し向けたが、間もなく終戦を迎えて大航海は幻に終わった。 ==概要== 「アルデゴンダ」は1931年、オランダのA・F・スマルダース社で建造された〔。竣工後はネーデルラズ・インディッシュ社の手によって運航され〔#Helder Line〕、東南アジア方面で行動をしていた。国際情勢の緊迫によりオランダ海軍に徴用されて特設給油船「TAN 5」となり、太平洋戦争の開戦を迎える。開戦間もない1941年12月28日、「TAN 5」はマラッカ海峡を航行中に日本機の爆撃を受けて損傷するが、大事には至らなかった。その後、日本軍が迫る1942年3月2日にスラバヤで自沈した〔。 やがて「TAN 5」は日本海軍の手によって浮揚し、時期ははっきりしないが「愛天丸」と命名され、1942年8月5日に海務院から三菱商事船舶部(のちの三菱汽船)に対して運航の委託が命じられた〔。浮揚して修理が完成した暁には第八艦隊付属となることが内定しており、また船員もマレーやスマトラ方面の人物を採用してもよいということであった〔#郵船戦時下 pp.820-821〕。「愛天丸」は9月8日に修理が終わり、「アルデゴンダ」を知っていた現地造船所のオランダ人技師長が「愛天丸」の一般乗組員を集めた〔#郵船戦時下 p.821〕。船長など高級船員は日本人が務め、9月中旬から下旬にかけて「愛天丸」のクルーがそろった〔。30名ばかりの一般乗組員は中国人が主であったが運転士にオランダ人とインドネシア人、機関士に2名のオランダ人2名がおり、中国人乗組員の中には身の回り品一式が入った荷物や、ニワトリを持ち込む者もいて「大陸的風景」と表現された〔。日本人乗組員は最終的には5名となり、乗組員総計は35名となった〔#郵船戦時下 p.822〕。10月12日付で所属が第八艦隊から第一南遣艦隊に変更され、10月15日に処女航海でスラバヤから昭南に向けて航海を行った〔。「愛天丸」は1943年1月1日付で日本海軍に徴用されて特設運送船(給油)となる〔#特設原簿 p.93〕。その後は昭南を起点とする石油輸送にあたり、1944年後半以降から連合軍の脅威が迫って状況が困難になっても、輸送任務は継続された〔。 1945年に入り、アメリカ軍によるフィリピン奪還や南シナ海でのグラティテュード作戦により日本の南方からの資源還送ルートは滅亡寸前となった。日本軍は南号作戦などを発動して資源還送を策したが、1945年3月にヒ88J船団が悲劇的な壊滅をして作戦は打ち切られ、南方からの資源還送ルートは途絶した。ルートが途絶して約3か月後、南方からの資源還送が突然計画されることとなった。そして、この還送に「愛天丸」が起用されることとなった。7月15日、「愛天丸」に長谷部喜蔵大佐が指揮官として赴任〔。乗組員のうち重要配置についていた者10名以外はすべて日本人乗組員に入れ替え、乗組員総計は42名となった〔〔#駒宮 (1981) p.20〕。また、船名も「第二江之島丸」と改名した〔。「愛天丸」改め「第二江之島丸」はセレター軍港に回航され、船体を鉄板で補強するとともに高角砲2基、20ミリ機銃6基、10ミリ旋回機銃4基を装備し、でガソリンを満載して出港の時を待った〔#郵船戦時下 p.823〕。 船舶砲兵出身の著述家である駒宮真七郎は、この還送計画について「狂気の沙汰と驚くだろうが、真実のところ実施された」と表現しているが〔、「狂気の沙汰」は還送計画の実施という点以上に、策定された輸送ルートが「狂気の沙汰」であった。そのルートは以下のとおりである〔。 :昭南 - バンカ島 - バンカ海峡 - スンダ海峡 - ジャワ島南方 - オーストラリア大陸南方沖 - タスマン海中央 - ニューカレドニア島、フィジー中間海域 - ウェーク島東方 - 釧路港 総航程約1万海里(約18520キロ)、しかも航行海域のほとんどは連合軍側の水域で、早い話が敵の勢力圏内を潜り抜けて日本に帰還しようとするものであり、万が一の時のために数か国の国旗を用意していた〔〔。しかし、約1万海里の航程を何日で踏破するのか、水や食糧の補給や乗組員の健康維持、艦艇の接触を受けた場合の措置をどうするのかについては、その討議が行われたのかを含めて一切不明である〔。さらに、出港直前に長谷部が病のため退船して指揮官は大尉に代わった〔。それでも、大航海に乗り出す日は迫っていた。 1945年8月8日、「第二江之島丸」は2隻の駆潜艇の護衛のもとに昭南を出港して、まずバンカ海峡に向かった〔〔#駒宮 (1981) p.21〕。敵襲を警戒して島影に仮泊しながら南下し、8月10日夕刻にバンカ島東岸の泊地に到着〔。8月11日朝に航行を再開するが正午ごろに1機のB-24の空襲を受け、被害はなかったものの将兵がナーバスになって乗組員に八つ当たりするなど船内は不穏となった〔〔。8月12日正午ごろに2機のB-24が襲来し、船長室とその至近に爆弾2発が命中するも不発であったが、機銃掃射で将兵に負傷者が出たことと、不発弾だったとはいえ今後の大航海を控えて念のため船体の修理を行うこととなり、ジャカルタに入港して修理を開始した〔〔。しかし、修理に入って間もなく8月15日の終戦を迎えることなって「1万海里の大航海」はジャカルタで終わることとなった〔〔。 「第二江之島丸」は応急修理を終えて8月25日にシンガポールに回航され、イギリス海軍に引き渡された〔〔。「第二江之島丸」は1945年11月30日に除籍され、1946年9月30日に解傭された〔。その後は1955年にルー・シッピングに売却されて「ラ・フェ」 (') と改名し、間もなくチン・ファ・シッピングに転売されて「グローリー」 (') と再改名、1965年に解体された〔。) と改名し、間もなくチン・ファ・シッピングに転売されて「グローリー」 (') と再改名、1965年に解体された〔。) と再改名、1965年に解体された〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「愛天丸」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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