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愛知万博の歴史では、2005年日本国際博覧会(愛知万博)に関連した出来事を時系列で記述する。 ==開催までの経過== *1988年10月 愛知県が万博構想を発表する。 *1990年2月 万博会場候補に愛知県瀬戸市の海上の森が挙がる。 *1991年10月 万博テーマが「技術・文化・交流-新しい地球創造」となる。 *1994年6月 基本構想発表。入場者4,000万人、会場建設や出展事業費に4000億円前後を見込む。開催後、会場跡地は住宅地として整備するとした。 *1995年12月 万博開催申請の了承を閣議にて得る。入場者規模は2,500万人に下方修正。 *1996年4月 政府が博覧会国際事務局(BIE)へ参加申請。テーマは「新しい地球創造:自然の叡智」。 *1997年6月 モナコで開催されたBIE総会でカナダのカルガリーを破って2005年の開催地に決まる。投票はジャマイカを除く81カ国の無記名で行われ、結果は日本52、カナダ27、棄権1、無効1。両陣営とも多数派工作のためにBIE未加盟国を加盟させた結果、当初47カ国だった加盟国が82カ国にまで増加した。また、この誘致合戦では当時進出先を検討中だったトヨタ自動車の欧州第二工場をカードにヨーロッパ諸国の支持を取り付けるなど、当時地元経済界で急速に存在感を増しつつあったトヨタ自動車の力を見せつける結果ともなった。 *1997年10月 博覧会協会が設立される。 *1999年5月 会場予定地の海上の森で絶滅危惧種のオオタカの営巣が確認される。 *2000年1月 中日新聞により、BIEが「万博の跡地利用計画は環境破壊」と厳しく批判していた文書の存在がスクープされる。 *2000年4月 会場跡地の宅地開発計画を中止。 *2000年9月 愛知郡長久手町(現・長久手市)の愛知青少年公園(現・愛・地球博記念公園)に主会場の計画変更を発表。入場者規模は1,500万人に下方修正。 *2000年12月 パリで開催されたBIE総会で愛知万博が正式登録される。 *2001年3月19日 博覧会協会最高顧問に堺屋太一が就任 *2001年3月30日 187カ国 73国際機関に参加招請を開始 *2001年3月22日 堺屋太一の開発志向の計画と博覧会協会の意向にズレがあることを同氏がコメント *2001年6月28日 堺屋太一が協会関係者との意見の相違の理由で博覧会協会最高顧問を辞任 *2002年1月 愛知万博の愛称が「愛・地球博」に決まる。 *2002年6月 皇太子徳仁親王が愛知万博名誉総裁に就任。 *2002年10月 長久手・瀬戸両会場で起工式。 *2003年9月 前売り入場券が発売開始。その時、小泉純一郎首相が購入 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「愛知万博の歴史」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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