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憲徳王 : ウィキペディア日本語版
憲徳王[けんとくおう]

憲徳王(けんとくおう、生年不詳 - 826年)は新羅の第41代の王(在位 : 809年 - 826年)であり、姓は金、は彦昇〔『三国遺事』王暦では諱は彦升と記される。〕。父は第38代元聖王の元太子の金仁謙(昭聖王により恵忠大王と追封)、母は角干(1等官)の金神述の娘の淑貞夫人(昭聖王により聖穆太后と追封)。王妃は礼英角干の娘の貴勝夫人〔『三国遺事』王暦では、憲徳王の弟の忠恭角干の娘の貴勝とし、皇娥王后と諡されたと記す。〕。809年7月に甥の哀荘王を殺害して、自ら王位に就いた。
== 即位まで ==
元聖王6年(790年)に使者として唐にわたり、帰国後に大阿飡(5等官)となった。翌791年に元侍中の悌恭(ていきょう)の反乱に際しては鎮圧に功績があって(3等官)となり、794年には当時の侍中の金崇斌(すうひん)が退官したために彦昇が侍中に抜擢された。795年には伊飡(2等官)、796年には兵部令(軍務管掌の長官)を経て、800年に哀荘王が即位するとその摂政となった。さらに801年には王の行幸を総括する御龍省の私臣(責任者)となり、次いで貴族代表の立場となる上大等となった。809年7月になると弟の悌邕(ていよう)とともに哀荘王を殺害し、自ら王位を継いだ。位人臣を極めていた彦昇が、摂政の地位に甘んじていられなくなってのことと見られている〔井上1972 p.235〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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