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憲政党(けんせいとう)は、明治時代の日本の政党である(1898年6月22日-同10月29日、自由系:1898年10月29日-1900年9月13日)。1898年(明治31年)、板垣退助の自由党と、大隈重信の進歩党が8月10日に予定されていた第6回衆議院議員総選挙に備えて藩閥政府に反対するために合同してできたものである。だが、総選挙直後に再分裂して旧自由党側が「憲政党」の名称保護を強行して引き続き「憲政党」を名乗り、旧進歩党側は憲政本党と名乗った。 本項記事では、1898年6月22日から同年10月29日までの統一された憲政党と10月29日から1900年9月13日の旧自由党系の憲政党(「自由派憲政党」などと呼称されることが多い)の双方を扱うものとする。 == 概要 == === 憲政党 === 第2次松方内閣が計画した地租増徴法案に対して同内閣の与党であった進歩党は与党離脱を決定して、野党自由党との連携を強めた。これに対して松方正義内閣総理大臣は衆議院解散を行って第5回衆議院議員総選挙に至るが、松方自身は解散当日に内閣総辞職を行い、急遽伊藤博文が組閣した第3次伊藤内閣も政権運営の見通しが立たないまま、再度解散に踏み切った。 前回総選挙からわずか3ヶ月での再度の解散に両党の反発は高まり、1898年6月22日に両党は合同して新党・憲政党を発足させた。新党は「政党内閣の樹立」「地方自治の発達」「通商貿易の拡大」「産業・鉄道の充実」「国力に見合った軍備増強」「財政基盤の確立」「教育の発達」「皇室及び憲法の擁護」「文官任用令廃止」などを掲げていた。当面総裁は設置せず、旧自由党の松田正久・林有造と旧進歩党の尾崎行雄・大東義徹の4名が総務委員に就任して党務を行うものとした。 これを知った伊藤博文は元老達に対して自分達も新党を結成するか、憲政党に政権を一旦明け渡すことを要求した。だが、元老会議は両方とも反対したために伊藤は内閣総辞職を行い、元老会議は後継のなり手を見つけられないまま、後者を選択した。 1898年6月30日、大隈を内閣総理大臣、板垣を内務大臣とする日本最初の政党内閣「隈板内閣」を成立させるが、反政府のみを目的とする自由党と進歩党の大同団結によって成立した政党であるため、政策や路線・人事をめぐり内部において旧自由党系と旧進歩党系の対立が絶えなかった。特に外務大臣に起用が予定されていた自由派の星亨駐米公使が急遽帰国した時に、星の当初の帰国目的が両党合同に反対するためのものであった事を知った大隈は自ら外相を兼ねて星起用を取り消した(折を見て鳩山和夫に差し替える予定であったとする説もある)。これに激怒した星と自由派内の一部が憲政党自体への批判を強めていった。とは言え、実施された総選挙では全体の8割の獲得議席を得て一旦は対立は収まるかに見えた。 だが8月22日、進歩派の尾崎行雄文相が帝国教育会で行った所謂共和演説事件が起った。これにより両派の抗争に拍車がかかり、これにより、尾崎は文相辞任のやむなきに追い込まれ、大隈はその後継として自派、すなわち同じ進歩派の犬養毅を奏薦したことによって両派の対立はついに頂点に達した。 10月29日、星亨が中心となり自由派領袖会議を党大会の代わりとして開催し、憲政党解党をクーデター同然に決議した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「憲政党」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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