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懐月堂安度 : ウィキペディア日本語版
懐月堂安度[かいげつどう あんど]

懐月堂 安度(かいげつどう あんど、生没年不詳)とは、江戸時代前期の浮世絵師懐月堂派(en)の頭領と見なされる人物である。
== 来歴 ==
江戸の生まれで、は岡沢(おかざわ)または岡崎(おかざき)と言い、俗称は出羽屋源七(でわやげんしち)。翰運子(かんうんし)とも号す。「安度」の正式な読みは不明で、「やすのり」とも読む。浅草蔵前に住む。絵師英一蝶に私淑し、宝永から正徳の頃に活躍する。弟子たちを従えて工房を営み、吉原遊女を題材にしたと見られる豊満な横顔の肉筆美人画を多く残した。やや角張った顔立ち、広い額、切れ長の目、団子鼻、無造作な口など特徴のある安度の画風は、鳥居派宮川派などといった同時代の他の浮世絵師のものと比べると、際立って独自のもので容易に区別ができる。肉太の筆致で描かれた豊満で大柄なその画風から、前半が絵馬屋ではないかという説もある。安度は肉筆浮世絵のみを手がけ、錦絵は描いていない。安度の作品は大半が遊女のひとり立ち姿を描いたものであったが、「遊女と禿図」(東京国立博物館所蔵)のようにふたりの人物が描かれたものも存在する。この作品では遊女は体を大きく「」の字に曲げ、禿に手を回してその耳元へ何かを囁きかける様子を捉えている。また「川中島の図」(出光美術館所蔵)や「武田信玄像」(島根県立美術館所蔵)のような武者絵も手がけている。
安度は蔵前の町内で金力があり、権勢も兼ね備えた豪商栂屋善六(本名は善蔵)に接近し、善六を幕府御用達にしようと考え、巧みに大奥に取り入った。その折の通称「源七」こと安度は、正徳4年1月12日1714年2月26日)に江戸城大奥を震撼させた江島生島事件に関わり、江島たち主要人物のみならず安度までもが連座することとなって伊豆大島流罪となった。
享保7年(1722年)5月、恩赦によって安度は許され、江戸へ戻ることができた。しかし懐月堂派としての活動は安度が流罪となったのち、次第に衰微していったと考えられる。懐月堂直系の弟子には安知度繁度辰度種度秀らがおり、彼ら直系の弟子以外にも、正徳から宝暦にかけて懐月堂風の肉筆美人画を描いた浮世絵師は十指に余るほど多く現れ、さらに宮川長春奥村政信らにも多大な影響を与えた。
享保15年(1730年)冬刊行の露月撰『二子山』3冊と、享保17年夏刊行の同じく露月撰の『倉の衆(あつまり)』3冊の2種の俳書には、「懐月堂」の名が見出せる。『二子山』には多数の専門絵師、素人絵師が挿絵を寄せているが、その中に「懐月堂常仙自画(花押)」と署名した絵が1図、「常仙画(花押)」、「常仙圖(花押)」、「常仙書(花押)」と署名した絵がそれぞれ1図見出せるほか、詠句も載っている。もう一つの『倉の衆』にも、同様の体裁の中に「懐月堂指水書(花押)」と署名した絵が4図見出せる。断定はできないがこの2種の俳書とも露月の撰であること、花押が類似すること、そして『倉の衆』には略画であるが懐月堂派風の立美人図も混じることから、この懐月堂常仙、懐月堂指水と懐月堂安度は同一人であると考えられる。そして俳諧師に志村常仙という人物がおり、これが安度と同一人物であり、俳諧への関与が認められることや常仙の生没年に照らし合わせ、延宝5年(1677年)の生まれで宝暦2年(1752年)に76歳で没したとする説もある。
安度ら懐月堂派の絵師たちは、肉筆美人画の落款に必ず「日本戯画」と冠している。これは彼らが伝統ある大和絵の後継者であるということを誇示したのである。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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