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成田長親 : ウィキペディア日本語版
成田長親[なりた ながちか]
成田 長親(なりた ながちか、天文14年(1545年) - 慶長17年12月4日1613年1月24日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将成田泰季の嫡男。官職は大蔵大輔。妻は遠山藤九郎(遠山綱景の子)の娘〔長親の母親は太田資顕の娘であり、資顕没後に母子で成田氏に身を寄せていた。黒田(2004)〕。子に長次、正明、勝明ら。
== 生涯 ==
天文14年(1545年)、成田泰季の嫡男として誕生。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉後北条氏の戦い(小田原征伐)が始まると、主君の成田氏長は北条氏に味方して小田原籠城に参加した。成田氏の本拠忍城は氏長の叔父にあたる泰季が城代となって守ったが、泰季が開戦直後に没したためその子・長親が代わって城代となり、防衛の指揮を執った。忍城を攻める上方勢は石田三成を総大将とし大谷吉継長束正家などの秀吉子飼いの諸将が名を連ね23,000騎もの大軍であったと伝えられている。三成は巨大な堤防石田堤)を作って忍城を水攻めするなど総力を挙げて攻城するものの、北条方の本城である小田原城が降伏するまで長親は500騎と、士分や武装した農民も含め、計3,000名の手勢で城を守り切った〔ただし、当時の書状の中で三成は忍城水攻めを批判しており、またこの時点では一介の奉行でしかなかった三成の身分からしても、独断でこれだけの規模の水攻めを行えたかは疑問である。また、包囲に加わった浅野長政にも秀吉から水攻めを続行するようにとの命令が届き、士気が下がる事この上なかった、と浅野家文書に記されている。〕(忍城の戦い)。
その後は当主氏長とともに会津蒲生氏郷のもとに一時身を寄せたのち、下野国烏山へと移り住むが氏長と不和になり出奔出家して自永斎と称し、晩年は尾張国に住んだ。
慶長17年12月4日(1613年1月24日)、死去。菩提寺は名古屋市大須にある大光院。戒名は青岩義伯菴主で墓碑は名古屋市千種区の平和公園 (名古屋市)大光院墓地にある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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