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成身院光宣 : ウィキペディア日本語版
成身院光宣[じょうしんいん こうせん]
成身院光宣(じょうしんいん こうせん、明徳元年(1390年) - 文明元年11月20日1470年1月1日))は、室町時代中期から後期の武将である。大和国人興福寺衆徒筒井順覚の次男。兄に順弘、弟に尊覚実憲順永。興福寺末寺の衆徒・六方衆の棟梁。僧官としては律師、僧位は法印。
== 生涯 ==

=== 大和永享の乱 ===
応永12年(1405年)に出家、興福寺子院成身院の僧侶となった。
永享元年(1429年)、大乗院衆徒豊田中坊と一乗院衆徒井戸氏との間での争いが勃発。筒井氏は井戸氏を支援したのに対し越智氏箸尾氏は豊田中坊を支援し、大和国人は各々両派に続々と参戦、戦火は大和全土に広がった(大和永享の乱)。
永享4年(1432年)、光宣は6代将軍足利義教に援軍を要請、幕府は光宣の申し入れを受けて、義教が周囲の反対を押し切って筒井氏支援を決定。幕府軍の発向を知って越智方は大和南部に撤退した。 永享6年(1434年)になると越智方と筒井方の対立が再燃し、8月には光宣の父筒井順覚が越智氏に敗れて戦死した。翌年、兄の順弘が還俗、再び光宣の懇請を受けた義教は大軍を派遣し、越智氏は敗れたもののゲリラ戦術により合戦は泥沼化の様相を呈した。同11年に幕府はようやく越智氏・箸尾氏を鎮定した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「成身院光宣」の詳細全文を読む



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