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『或る「小倉日記」伝』(あるこくらにっきでん)は、松本清張の短編小説。『三田文学』1952年9月号に発表、翌年に第28回芥川賞を受賞した。 福岡県小倉市(現・北九州市小倉北区)在住であった松本清張が、地元を舞台に、森鷗外が軍医として小倉に赴任していた3年間の日記「小倉日記」の行方を探すことに生涯を捧げた人物を主人公として描いた短編小説である。 それまで朝日新聞西部本社に勤務しながら執筆活動を行っていた清張が、上京後小説家に専念するきっかけとなった作品。 == ストーリー == 1938年(昭和13年)。田上耕作(たがみこうさく)は生まれつき神経系の障害で片足が麻痺しており、口が開いたままで言葉をうまくしゃべれない。ただ知的障害はなく、むしろ勉学に秀でており、小中と優秀な成績をおさめる。彼の母方の祖父が建てた貸し家には貧しい一家が住んでおり、そこのじいさんは伝便(でんびん)を仕事にしていた。耕作は朝方にじいさんが鈴を鳴らしてやがて消えてゆくのを、子どもながらにはかない気持ちで聴いていた。 耕作には中学以来、江南(えなみ)という友人がいた。江南は文学青年で、商社に勤めだしても就業中に詩を書くような男だった。ある日、江南は森鴎外の作品『独身』〔森鴎外『独身』:新字新仮名 - 青空文庫 なお伝便とは明治後期の小倉市内において、手紙を届けたり小荷物を運んだりする使い走りのような職業。〕を耕作にすすめる。それを読んだ耕作は感動する。というのも、自分が子どもの頃に聴いていた伝便のことが書かれていたからだ。耕作は生涯賃金の出る仕事にはつけなかった。母の裁縫と家賃収入で暮らしていた。が、江南のつてで目録作りの仕事を始める。江南が紹介したのは病院経営者の白川だった。白川は文学青年の集まるグループの中心的人物であり、芸術的蔵書を多く保有しいた。その蔵書の目録作りを耕作は手伝うことになる。ただ、手伝うといっても本の整理はもう一人の者がやるので、耕作はほとんど蔵の書を読んでいた。 ほどなくして、白川のグループでは資料を元に郷土の情報を発信する活動が流行り始める。それを見た耕作は、森鴎外が小倉で過ごした満三年の日記、『小倉日記』を補完することを思いつく。耕作は、『独身』、『鶏』、『二人の友』などの文献から小倉での鷗外の足跡を推測し、ゆかりの人物を取材する。麻痺のある身体で荒れた山道はこたえる。その上目当ての家の者には門前払いにあい、翌日母ともう一度訪れるという不遇を味わう。幾度となく、「こんなことに意義はあるだろうか」という思いが押し寄せ彼を苦しめるが、江南や母の激励、文士からの返信、またそのつながりで鴎外の弟潤三郎からも手紙をもらい、耕作は一層力を尽くす。 そんな耕作に戦争が立ちふさがる。戦時下では鴎外ゆかりの者に話を聞くのは困難だった。また、耕作の麻痺症状は日に日に進んでいたのだが、戦後は食糧不足でさらに悪化し、ついには寝たきりになってしまう。江南は度々耕作の家を訪れ、食料を持ってくる。母は老体ながらも耕作を看病する。耕作は病状が改善したあとを空想した。風呂敷一杯には彼のあつめた「小倉日記」がある。 しかし、1950年(昭和25年)の暮れ、耕作の衰弱が激しくなる。江南がちょうど来ていた日だ。耕作が枕から頭を上げて、聞き耳を立てる仕草をするので、母が「どうしたの?」と訊く。もうほとんど口がきけなくなっていたが、彼ははっきりと言った。鈴の音が聞こえる、と。それは死ぬ者が味わう幻聴のようだった。次の日、耕作は息を引き取る。 翌年の二月、鴎外の一族が『小倉日記』の原本を発見する。日記の出現を知らずに耕作が死んだのは、幸か不幸かわからない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「或る「小倉日記」伝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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