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戚コン[せき こん]
戚衮(せき こん、519年 - 581年)は、南朝梁から陳にかけての儒学者。字は公文。本貫は呉郡塩官県。 == 経歴 == 梁の臨賀王府中兵参軍の戚霸の子として生まれた。幼くして建康に遊学し、三礼の講義を国子助教の劉文紹に受けた。19歳のとき、梁の武帝の命により孔子の言行や『周礼』・『礼記』の解釈について問題を出され、解答してみせた。揚州祭酒従事史に任じられた。 国子博士の宋懐方は北方の出身で、北魏から『儀礼』と『礼記』の疏をもたらしたが、その内容を生前秘密にして伝えなかった。宋懐方が死の床につくと、「わたしの死後に戚衮がもしやってきたら、『儀礼』と『礼記』の解釈本を譲るように。もしかれが来なければ、遺体とともに埋葬するように」と家人に遺言した。戚衮は太学博士を兼ねた。 蕭綱が皇太子となると、戚衮は召し出されて講義にあたった。あるとき蕭綱が儒者を集めて宴会を開き、道学についてたがいに質疑応答したが、中庶子徐摛の弁論が難解で、居ならぶ儒者たちも話を継ぐことができなかった。その中で戚衮は徐摛の言うところの意味を汲んで、徐摛と対話をつづけ、応答も流れるようであったため、蕭綱も感嘆した。まもなく戚衮は員外散騎侍郎となり、さらに員外散騎常侍に進んだ。554年(承聖3年)、敬帝が承制すると、戚衮は江州長史となった。沈泰が南豫州に出向すると、戚衮は沈泰に従って南豫州におもむいた。558年(永定2年)、沈泰が北斉に亡命すると、戚衮は強迫されてやむなく従った。後に鄴から逃げ出して帰国した。577年(太建9年)に程文季の下で北伐に従軍し、翌年の呂梁の戦いの敗戦により北周に捕らえられた。しばらくして帰国し、国子助教を兼ね、中衛始興王府録事参軍に任じられた。581年(太建13年)、死去した。享年は63。 戚衮は梁代に『三礼義記』を著したが、戦乱のために亡失し、『礼記義』40巻が当時に通行した。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「戚コン」の詳細全文を読む
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