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戸倉貞則 : ウィキペディア日本語版
戸倉貞則[とくら さだのり]
戸倉 貞則(とくら さだのり、1650年頃 - 1720年頃)は、江戸時代前期の豊後国(現大分県)の郷土史家。通称は助右衛門、府内(現大分市)の西郊「沖ノ浜」に在住。
== 略歴 ==
元禄11年(1698年)戊寅、古老の口実、古記録等をもとに、大友氏入封(建久年間)から明暦年間まで約五百年における神社仏閣の興廃、祭祀の興亡等を記した豊後の地誌、歴史書『豊府聞書』(全七巻 ほうふききがき)を著す。『聞書』の執筆は、豊後国志編纂のような藩命によるものでなく、あくまで貞則自身の自主的、自弁行為によるもので、藩の援助等は得られなかった。このため古記録収集と現地踏査(古老からの聞き取り)に5年、執筆に5年、即ち着手から完稿までに計10年ほどを要した労作と推測できる。
『聞書』には、巻頭に万寿寺揚宗の序文、巻末に岡藩の儒者関載甫(正軒)の跋文、途中に俳諧師大淀三千風の賛辞が記されている。揚宗の序文により、貞則の本業は商賈(商人)であったこと、さらに、これら三人との交流があったことから相当な文化人、教養人と思われる。生没年不詳だが、載甫の跋文は正徳4年(1714年)であるから、この頃まで貞則は生存していたと推測できる。また、聞書では大友氏の行く末(大友内蔵助義孝資給)を最後に〆ていることから、貞則は大友家と所縁のあった人物ではないかと推測される。
しかし、初めて豊後の地誌を著し、大きな業績を残したにもかかわらず、後続する『豊後国志』、『雉城雑誌』(阿部淡斎、天保年間編集)にも『聞書』からの引用文はあるが、貞則本人について語られていない。戦国期のように混乱した時代ではないのに、貞則の経歴、素性が現在まで伝わっていない、という謎めいた人物である。
『豊府聞書』は原本、写本とも現存していない、と云うのが定説であったが、写本(由学館所蔵)は存在する。奥書(巻末)に「于時元禄十一戊寅祀八月十八冥。豊府沖濱之住、戸倉貞則謹門書」の記載がある。記述は、歴代領主毎に事象を記録する編年体の形式をとっている。
一つの異本と見られる『豊府紀聞』(全七巻 ほうふきぶん)の写本は、従前から存在している事が知られている。『紀聞』には「杵築城」と記載してある(『聞書』では木付城)。木付が杵築と書かれるようになったのは、正徳2年(1712年)、六代将軍家宣杵築藩三代藩主松平重休に与えた朱印状に「木付」を「杵築」と誤記したことによる。したがって、『紀聞』は正徳2年以降に『聞書』を模写したことが判る。しかし、『聞書』と『紀聞』では、若干語句の云い回しに差異があるものの、大意は変わらない。『紀聞』には序文、賛辞、跋文がない。
しかし、前述のように『聞書』の写本が存在する事から、今後は『紀聞』ではなく原書『豊府聞書』と称する方が、著者戸倉貞則の意に適うものと思う。
なお、『雉城雑誌』瓜生島址の項で、淡斎は「…此島ノ所在、傳説紛々トシテ、一定ナラズ。前条ニ記シタル聞書ノ説ハ、沖ノ濱町ノ住民、河田氏ガ元禄年間ノ手記ニシテ、其實父何某ト話説シタルモノヲ、誌シタルニアラズ。件ノ島ニ住居シテ、此ノ水災ニ免レタル人ナレバ、前説ナル府城ヨリ町数、且島中ノ広狭共ニ、是ヲ拠トシテ…」と述べ、『聞書』は戸倉貞則の作でなく、河田氏某を著者としている。明治以降、手記という言葉だけをとらえ、その解釈がいつのまにか創り事となされたことは残念である。しかし、『聞書』はその序文で神社仏閣の興廃を明らかにして、後世に伝えると述べている通り、創り事を書く必要もない。なぜ淡斎が架空の話と断定したのか、できたのか疑問である。戸倉貞則と河田氏の関係は不明、同一人物かもしれない。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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