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戸川 貞雄(とがわ さだお 1894年12月25日 - 1974年7月5日)は日本の作家、小説家。平塚市の第7・8代目市長。 ==人物== 東京は本郷の森川町生まれ。幼少から父の仕事により台湾へ移り、本土へ戻ってからも静岡や名古屋などへ移り続けた。 早稲田大学文学部英文科在学中から執筆活動を行い、卒業後は東京社(現在のハースト婦人画報社)の編集者を経たのち退職し、1921年10月に『蠢く』で作家デビュー。翌年東京から平塚市に移住し、戦前から戦後にかけて作家として活動する。 1955年に河野謙三からの要請を受けて平塚市長選挙に出馬。所属していた作家クラブの小説家や芸能人の応援もあり、710票差の接戦を制し当選。当時としても文化人が自治体の首長となることは珍しく「文人市長」として時の人となった。 市長としての実績は、戦災からの復興とそれに伴う財源捻出および財政の健全化、近隣自治体との合併による市勢拡大、歴史検証に基づく文化財保護(高山樗牛・村井弦斎に関する物証など)、七夕祭り(現在の湘南ひらつか七夕まつり)の市営化、湘南平の命名などがある。また1959年の再選直後、競輪事業の運営について「競輪悪妻論」(後述)という持論を展開し話題になった。 「政治とは政(まつりごと)であり、政はお祭りに通ずる」という持論から多方面な活動を行い『平塚のお祭り市長』として有名になったが、再選直後から「3選不出馬」を公言しており、1963年に2期8年間を務めた市長の座を退いている。引退後は郷土史の編纂にかかわるなどの悠々自適な生活を送っていたが、1974年の七夕祭り初日に高山樗牛と同じ平塚市内の杏雲堂病院において狭心症のため死去。79歳。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「戸川貞雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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