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戸村 一作(とむら いっさく、1909年5月29日 - 1979年11月2日)は、市民運動・農民運動(三里塚(成田)空港反対運動)活動家。 == 人物 == 千葉県成田市生まれ。千葉県成田中学校卒業。農機販売業を営む。 1966年6月に、新東京国際空港建設予定地が、成田市三里塚とされるが、反対派住民が団結することとなる。同年6月28日に「三里塚空港反対同盟」の代表となり、「芝山空港反対同盟」と合併後の「三里塚芝山連合空港反対同盟」(略称「反対同盟」)の代表に選ばれる。その後、政府側と「反対同盟」側とが対峙する中で実力闘争となり、新左翼諸派の支援を受けつつも、実力闘争に反対する日本共産党支持者が離反することとなる。1968年には、「反対同盟」より逮捕者やけが人を続出することとなり、代表の戸村一作自身も頭に大怪我することもあった〔もの書きを目指す人びとへ - 流血の成田空港反対闘争 〕。1970年には、三次にもなる強制測量阻止闘争を展開する。1971年2月の第一次行政代執行の際には、同盟員側に多くの重傷者を出す。同年9月16日の第二次行政代執行の際には、機動隊員に死者が3人出るような事件(東峰十字路事件)となる。この事件で、後に「反対同盟」の青年行動隊員が多数逮捕され起訴されるが、犯人の特定が困難となり、実刑判決が確定した者はいなかった。 1974年7月7日投票の参議院議員選挙全国区に「成田空港反対」を掲げて出馬し、33万票を獲得しつつも落選する。なお、戸村の選挙を支援する革新系無所属地方議員を中心に、「全国革新議員会議」が設立されている。 新東京国際空港は、施設が建設され、滑走路も一本だけだが実現し、1978年3月30日が開港予定日とされるが、同年3月26日に成田空港管制塔占拠事件が起こり、通信機器が壊され、活動家らが多数逮捕される。同年4月に日本経済団体連合会代表の桜田武、参議院議員の秦野章、「反対同盟」代表の戸村一作が会談する〔3.26直後の財界の休戦申し入れ顛末 〕。同年5月20日に設定されていた開港予定日を一年先送りすることと、その間、「休戦」とすることについて、なんとか一致させた〔3.26直後の財界の休戦申し入れ顛末 〕。同年5月10日に、戸村一作と福永健司運輸大臣の会談がなされたが、話し合いは平行線となる〔3.26直後の財界の休戦申し入れ顛末 〕。新東京国際空港開港が、再度設定された開港予定日の5月20日に実現する。 戸村一作は、「反対同盟」代表の現役のまま、1979年11月2日に死去する。70歳であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「戸村一作」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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