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戸次親守 : ウィキペディア日本語版
立花道雪[たちばな どうせつ]

立花 道雪 / 戸次 鑑連(たちばな どうせつ/べっき あきつら)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将豊後戦国大名大友氏家臣臼杵鑑速吉弘鑑理らと共に大友家の三宿老に数えられた〔。
大友義鑑大友義鎮の2代に仕えた大友家の宿将で、北九州各地を転戦し、その勇猛は諸国に知られて恐れられた。本人は立花姓を名乗っておらず、戸次鑑連または戸次道雪で通している。〔だが、豊後の儒学者・帆足万里が著した『井樓纂聞 梅岳公遺事その第二卷 P.26に、天正八年の際、道雪から宗麟への書信にすでに立花道雪と署名したと指摘された。〕
== 生涯 ==

=== 少年期・家督相続 ===
永正10年(1513年)3月17日、大友家の一族である豊後の国大野郡(大野荘)大野郷藤北(大分県豊後大野市大野町)鎧岳城主・戸次親家の次男として生まれる〔楠戸義昭『戦国名将・智将・梟将の至言』P160〕。最近、生誕地は、県民の森四辻峠付近の柳ヶ台(大野町高野字城浦)と解明された。幼名は八幡丸(はちまんまる)〔。長兄は早世したため嫡男として育てられる。
幼くして母を失い、父も病床にあったために代わりに継母(父の後妻で臼杵鑑速の姉)によって育てられた。元服前の14歳の時、病弱な父に「我が父上の名代として出陣致す」と自ら志願し、武功の老臣3人の補佐を付けて、2000人の兵を授けられて初陣した〔。この時は大内領豊前馬ヶ岳城(現在の福岡県行橋市)を攻め、道雪は金の指揮旗を振って奮戦し、兵力で3000ほど勝る大内軍に勝利して凱旋した〔。その直後の大永6年(1526年)、父・親家の死にともない、元服して戸次氏の家督を相続し、親守(ちかもり)、親廉(ちかかど)を名乗った。家督相続後は大友義鑑に仕え、のちにその偏諱を賜って鑑連に改名する。
その後、天文4年(1535年)8月22日、肥後菊池氏などの肥後国人の反叛の際には、肥後に出陣して車返の戦いで勇猛奮戦し、乱を鎮圧した。
天文15年(1546年秋月文種の一度目謀反の時には、大友義鑑の命令を受け、佐伯惟教臼杵鑑速吉弘鑑理など大友諸将と共に筑前古処山城へ出陣、この乱も鎮圧した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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