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戸田一西 : ウィキペディア日本語版
戸田一西[とだ かずあき]

戸田 一西(とだ かずあき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将大名徳川氏の家臣。近江大津藩主、同膳所藩初代藩主。大垣藩戸田家初代。多米戸田氏の戸田氏光の長男。
== 生涯 ==
一西を祖とする大垣藩主戸田家は、戸田氏宗家の支流だが一西の代には既に独立し別家となっていたといわれ、宗家とは別個に徳川氏の下に伺候し、別家召出(本家同等に遇する)を受けたと推定される。また、一西の出自を実は他家からの養子だとする説もある〔新井白石藩翰譜』では、元は戸田氏ではないとする説を紹介している。また、『今橋物語』『牛窪密談記』などの江戸時代初期編纂の記録類に享禄2年(1529年松平清康との下地合戦(豊橋市下地町)で今橋牧野家が敗亡する際に一族の牧野新三郎(新三)が生き延び、赤岩村の法言寺(現在の愛知県豊橋市多米町字赤岩山の赤岩寺)に逃れ、後に戸田氏を嗣いだという記述がある。越後長岡藩牧野家の『牧野家系図』や関係文書には牧野古白の弟として牧野成村(新蔵・新蔵左衛門尉)と記し、その子・成宗(新二郎)が今橋城落失のおり赤岩邑の法言寺に逃れ、後に戸田氏を嗣いだとする。しかし、これらの人物が戸田一西と同一であるかは明らかにされていない。〕。
一西は三河国吉田(現在の愛知県豊橋市)生まれ。永禄年間、三河国渥美郡多米地域を領していたとされ〔『八名郡史』によれば、渥美郡赤岩村の法言寺の永禄11年3月(1568年4月)棟札に記された戸田左門は一西と推定されている〕、吉田城攻めの頃には徳川家康に仕え、その三河譜代の家臣となった。天正3年(1575年)従五位下采女正を叙任。天正18年(1590年)の小田原征伐に参陣し、伊豆国山中城を攻略した。同年、家康の関東入りに従い、武蔵国鯨井(現埼玉県川越市鯨井)に5,000石を賜う。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは徳川秀忠軍に従って信濃上田城真田昌幸を攻めた。このとき、上田城攻めにこだわる秀忠にただ一人反対した事から後に家康に賞された。秀忠の関ヶ原遅参について、家康は大いに怒り、周囲の者は皆諌めなかったのかと言ったといい、一西は自分が諌めたが受け入れられなかったと述べた。家康は今後は一西の言うことを用いられる様にしたいといい、自ら采を取り一西に授けた。一西はこれを受け感涙にむせたという〔。慶長6年(1601年)2月、家康の命による近江国膳所の築城を成し遂げた功績により、同地に3万石の所領を与えられ膳所藩を興した〔。一西は藩政安定のため、紅しじみ漁を奨励し、膳所は紅しじみの宝庫となり、一西の通称である左門に因んで「左門しじみ」と呼ばれるようになり、そのしじみ汁は京都の朝食に必ず出るまでになったという〔。
慶長9年(1604年)に死去〔山下昌也 編『家康の家臣団 - 天下を取った戦国最強軍団』学研M文庫、2011年、p.167〕。享年62〔。死因は落馬によるものといわれる〔。跡を長男の氏鉄が継いだ。明治42年(1909年)9月11日には贈従三位に追贈された。なお一西以下、代々の子孫は大垣の常葉神社にて祭神として祀られている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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