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戸田宗光[とだ むねみつ]
戸田 宗光(とだ むねみつ)は、室町時代中期から戦国時代初期の武将。入道名は全久(ぜんきゅう)。応仁の乱では西軍として活動する一方で三河・尾張に勢力を拡大、戸田氏中興の祖とされる。 == 概略 == 家系は八幡太郎義家の子、義隆を祖とする森氏の支流で、森頼定の10男・戸田信義を祖とするという。宗光の父は伝承によると、正親町三条家からの養子といわれる戸田実光(通称は三郎〔一説に諱は綱光されるが、弾正左衛門尉宗光の次男に家光(田原孫二郎と称す)があり、その子(弟とも)孫七郎の実名を綱光とする文献もある。(出典→『新編藩翰譜・第二巻』(戸田)・人物往来社刊、『豊橋市史・第1巻』)〕)。妻は松平信光(徳川家康の祖先)の娘。憲光、家光の父。通称は弾正左衛門尉。資料によっては戸田弾正左衛門、戸田弾正左衛門尉と載せる場合も多い〔なお、宗光の曾孫・康光(田原孫四郎・弾正少弼)は大永6年6月18日(1526年7月27日)付け小松原東観音寺(愛知県豊橋市小松原町)宛ての寄進状に「戸田孫四郎宗光」と署名し、曾祖父の実名を名乗ったとされるため両者は混同されやすい。〕。 三河の国人で、室町幕府政所執事伊勢貞親の被官。京都から正親町家の領地であった三河碧海郡上野に移り住み、上野には古城を築城したという。三河渥美郡田原(田原市)に田原城を、朝倉川南岸で同じく渥美郡仁連木(現在の愛知県豊橋市仁連木町)に二連木城を築城し、両城の初代城主となる。戸田氏中興の祖と称えられ、信州松本神社(長野県松本市丸の内)の祭神の一柱である。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「戸田宗光」の詳細全文を読む
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