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戸田 勝隆(とだ かつたか、生年不詳 - 文禄3年10月23日(1594年12月4日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。豊臣氏の家臣。通称は三郎四郎。民部少輔。諱は氏繁、氏知、政信とも。 == 生涯 == 出自不明〔紀行文集『街道をゆく』で司馬遼太郎は「美濃戸田氏の支流ではないか」と推測している。また、勝成の子・内記は丹羽氏時代の同僚・村上頼勝の娘を娶り、その子は頼勝の養子となり家督を継いだつながりから、村上源氏系の戸田氏という説もある。〕。弟に戸田勝成(重政)がいる。 織田氏家臣・羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の古参の家臣で、黄母衣衆として仕えた。天正元年(1573年)、近江長浜で250貫文を与えられ、天正5年(1577年)に秀吉が播磨姫路城主となった際には、5,000石に加増されている。当時、宮田光次、神子田正治、尾藤知宣らと並んで、「これを越える勇功の士あらず」と言われ、秀吉家臣団の中でも特に高名であった。 織田信長の死後も秀吉に従い、小牧・長久手の戦い、四国攻めなど各地に転戦して軍功を挙げた。また勝隆は軍功のみならず、近江の検地奉行や城割奉行なども務め、後にはキリシタン禁教令による教会の長崎の土地の没収を命じた書状にも勝隆と浅野長吉(長政)の署名が見られる。千利休や津田宗及主催の茶会にも名を連ねた。 四国平定後は、天正15年(1587年)に伊予国大洲7万石与えられるとともに、蔵入地である喜多郡土谷山村の代官職に任じられた。同じく同年9月5日に伊予今治を与えられた福島正則は、秀吉からの朱印状において「伊予は九州・中国之かなめ所」として勝隆との連携を指示されている。地蔵ヶ岳城を主城とし、黒瀬城(城代:岩城小右衛門尉信家)、板島丸串城(城代:戸田左衛門信種〔戸田与左衛門とも。〕)を領した。特に板島丸串城を改修して現在の宇和島城の概形を造ったのは勝隆である。蔵入地の下代官には、河野氏旧臣で現在も宗意原という地名に名を残す当地の土豪・豪商の武井宗意を任命した。また、伊予入りと前後して能島村上氏の支配下にあった忽那諸島二神島の検地等について書状を出すなど、浅野長政・福島正則・増田長盛らとともに、九州平定に向けて瀬戸内海の海上交通を担う豊臣政権の吏僚としても活動している。 しかし、その伊予支配は当初より民衆の反撥を買い、圧政に対してすぐに大一揆が起こった。一揆軍は黒瀬・丸串両城を襲ったが、これに対抗できなかった。勝隆は旧領主の西園寺氏の旧臣で在野で隠居していた土居清良の助力で何とか鎮圧したが、旧主・西園寺公広が一揆を唆したのではないかと恐れ、抹殺を決意するに至った。12月8日、勝隆は贈物を送って懐柔した上で、毛利氏の斡旋によって秀吉が本領安堵したという偽の朱印状を餌に自邸に呼びつけた。公広はこれを怪しみ、翌9日、10名の護衛を連れてきたが、供と離されて襲撃された。公広は覚悟を決めて戸田駿河守以下9名を返り討ちにしたが、包囲されて自刃して果てた。公広の護衛は主人の死を知って激怒し、50余人を斬り死に殉じた。これによって西園寺氏の勢力は一掃された。また、同じく伊予の旧領主である伊予宇都宮氏の勢力も掃討された。こうした勝隆の所業について、司馬遼太郎は『街道をゆく』において「南伊予・宇和島にやってきた『近世』というのは殺戮者の顔を持ち、その事業はひたすらに人を殺すことであった」と感想を述べている。同様の事例は、黒田孝高・黒田長政父子による豊前宇都宮氏謀殺のように、豊臣系大名の九州入りにおいても見られ、戦国大名や国人を従え、豊臣政権を成立させるプロセスにおいて実行された一般的な施策とも言えるため、これらの行為を勝隆個人の悪政と単純化するのは問題がある。 以後、多く人質を出させ、武芸に秀でた者は探し出して斬り、南伊予の土民の勢力は削がれ、一揆勢力は未然に削がれた。寺領は没収され、建物は破却され、貢物を収めさせるなど、苛政は極めた。一方、有力武将であった土居清良は千石で召し抱えると請われたが、彼は固辞した。法華津前延は200石、(喜多郡の豪族)曾根宣高の子・高房は300石が与えられた。他方で、旧織田家家臣で秀吉に背いて処刑されるところを勝隆が身をあずかっていた安見右近を、砲術に優れているということで3,000石で雇い、河後森城に入れた。 九州征伐では、福島正則・生駒親正・蜂須賀家政ら四国大名勢とともに海上輸送を担うとともに、豊臣政権の官僚として黒田孝高、毛利勝信らと検地に加わり、その後に発生した肥後国人一揆でも援軍に赴いた。小田原征伐が始まると、勝隆は兵1,700を率いて参戦。韮山城攻撃に加わった。大仏建設の際の大木輸送にも勝隆ら四国勢が動員された。 文禄・慶長の役に際しては、兵3,900を率いて朝鮮へ渡海。尚州の守備についた。第二次晋州城攻防戦には兵2,500と共に加わった。翌年9月27日、巨済島海戦で福島正則と共に活躍し、明海軍を破った。巨済島に滞留して講和交渉に当たるが、在陣中に病死した。 『武家事紀』によると、もともとは幼子がいたが、ある時刃を誤って自らを傷つけて死亡した。放鷹に出かけていて訃報を聞いた勝隆は、「己が刃にて過ちて死するほどの気質にては、益に立つ器にあらず、見るに及ばず」と言ってそのまま放鷹を続けたという。その後子はなく、大洲戸田家は断絶した。大洲の領地は戦役後の加増で、隣接する大名藤堂高虎に与えられた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「戸田勝隆」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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