翻訳と辞書
Words near each other
・ 戸田市文化会館
・ 戸田市消防本部
・ 戸田市立図書館
・ 戸田市立戸田中学校
・ 戸田市立戸田第一小学校
・ 戸田市立戸田第二小学校
・ 戸田市立新曽中学校
・ 戸田市立新曽小学校
・ 戸田市立郷土博物館
・ 戸田市農業協同組合
戸田帯刀
・ 戸田平橋
・ 戸田幸宏
・ 戸田幸延
・ 戸田康光
・ 戸田康平
・ 戸田康泰
・ 戸田康英
・ 戸田康長
・ 戸田庸直


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

戸田帯刀 : ウィキペディア日本語版
戸田帯刀[とだ たてわき]

戸田 帯刀(とだ たてわき、1898年3月23日 - 1945年8月18日)は、日本のカトリック聖職者。洗礼名はラウレンチオ。カトリック札幌使徒座代理および横浜教区長を務め、終戦直後の8月18日に射殺された。
==生涯==
1898年(明治31年)3月23日、山梨県東山梨郡西保村に生まれる。1923年大正12年)11月にローマ・ウルバノ大学へ留学し、1927年昭和2年)12月17日司祭に叙階された〔『教会秘話 太平洋戦争をめぐって』181頁〕。
1940年(昭和15年)10月11日に札幌使徒座代理に任命され、太平洋戦争中の1942年(昭和17年)3月、「米英を相手に戦争したらどうなるか分からない」と同僚神父に話したとして旧陸軍刑法違反で逮捕された〔戸田帯刀神父:戦争と信仰問い直す 戦後暗殺、札幌で神父の足跡考える集会 毎日新聞 2013年1月27日 北海道朝刊〕。4回の公判の後、無罪となり釈放された〔ストーリー:封印された神父殺害事件 神父銃殺の闇 毎日新聞 2015年10月11日 東京朝刊〕。
釈放された後の1944年(昭和19年)10月に横浜に移り、1943年(昭和18年)香港沖で殉死した井出口三代市を継いで横浜教区長となった。1945年(昭和20年)4月にはバチカンのローマ教皇ピウス12世に対し、太平洋戦争の平和的解決についてメッセージを送っていた〔Memoranda for the President: Japanese Feelers APPROVED FOR RELEASE CIA HISTORICAL REVIEW PROGRAM 22 SEPT 93 〕、とされる。ただし、それはアメリカ戦略事務局(Office of Strategic Services)の情報源のスパイ・ベッセル(コードネーム)の報告書によるものだが、ベッセルの報告内容には偽情報の多い時期があり、この件においても戸田を「皇族の一員」とする誤りがあるため、信憑性のある内容かどうかは分からない〔。
終戦当時、山手教会海軍に接収されていたが、教会を海軍に引き渡す時に「残念ながら、この戦争は日本の負けです。8月15日には終戦になるでしょう。それは、宣戦布告が12月8日、マリア様の無原罪の御宿りの祝日だったから、8月15日、マリア様の被昇天の祝日に終結するのがふさわしいからです」と語っていた〔『教会秘話 太平洋戦争をめぐって』179-180頁〕。
終戦後の翌日である8月16日に山手教会に行き、海軍に山手教会を早く返還するよう要請している〔『教会秘話 太平洋戦争をめぐって』178頁〕。その2日後の18日午後、保土ヶ谷教会で射殺体となって発見された〔『教会秘話 太平洋戦争をめぐって』176頁〕。教会内の建物を借りていた保健所の人は、その日に憲兵が1人見えたと証言している〔『教会秘話 太平洋戦争をめぐって』177頁〕。
亡骸は解剖の後、内野作蔵浦和教区長によって8月22日に葬儀が営まれたが、戦後の混乱のために会葬者はわずか十数名であった〔『教会秘話 太平洋戦争をめぐって』178-179頁〕。事件から約10年後、吉祥寺教会に「わたしは戸田教区長を射殺した者です。今は心から罪を悔いています。どうしたらよいでしょうか」と訴える者が現れた〔『教会秘話 太平洋戦争をめぐって』179頁〕が、警察に通報されることもなく姿を消した〔。当時、横浜地区にいた憲兵の一人だとされるが詳細は不明〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「戸田帯刀」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.