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戸田忠昌 : ウィキペディア日本語版
戸田忠昌[とだ ただまさ]

戸田 忠昌(とだ ただまさ)は、江戸時代前期の大名奏者番寺社奉行京都所司代老中を務めた。三河田原藩第3代藩主、肥後富岡藩主、武蔵岩槻藩主、下総佐倉藩初代藩主。父は旗本小姓組番士戸田忠次、母は伴忠好の娘。『土芥寇讎記』における人物評価、特に「謳歌評説」などでは忠昌やその他大久保忠朝阿部正武ら同僚を「善人の良将」と評している。
== 生涯 ==
家系は戸田氏の一門、田原戸田家の嫡流である。寛永16年(1639年)9月、子供の無い伯父の田原藩主戸田忠能の養子となった(実父の跡は弟忠時が継ぎ、のちに加増を受けて足利藩主となる)。
正保4年(1647年)8月21日、忠能の死により家督を継いだ。万治元年(1658年)閏12月27日、従五位下伊賀守に叙任して翌年、はじめて城地に赴いた。
寛文4年(1664年)5月、肥後富岡藩(天草藩)に転封となり1万石を加増、富岡城に赴任したが、寛文10年(1670年)、城の必要性を疑問視し三の丸を陣屋として残し、本丸・二の丸を破却した。寛文11年(1671年)には奏者番となり、寺社奉行を兼ねた。同年に転封を命ぜられ、相模下総武蔵常陸に領地を移された。延宝4年(1676年)、京都所司代に補任し、従四位下侍従に進み、越前守に改めた。
さらに1万石の加増を受け、領地を畿内に移される。天和元年(1681年)7月、河内にて1万石の加増があった。同年11月15日、老中に列し、武蔵岩槻藩主に転封された。岩槻藩主時代は領内笹山村(蓮田市笹山)に溜井落し堀を造ったといい、忠昌の受領名・山城守からとって「山城堀」と呼ばれる様になったという。天和3年(1683年)正月、下総佐倉藩に転じて1万石の加増を受けた。
貞享元年(1684年8月28日大老堀田正俊が従叔父で若年寄だった稲葉正休に声をかけられ、不意に殺害された。この時、「石見(稲葉の官名)乱心」の声を聞いた老中達が駆けつけ、大久保忠朝阿部正武、次いで忠昌が正休を斬った。元禄7年(1694年)、河内志紀、若江、丹北三郡の内にて1万石の加増を受けて7万1,000石を領した。清廉潔白にして才智仁愛に富んでいたという。
元禄12年(1699年)9月10日、老中在職のうちに没した。享年68。江戸牛込松源寺に葬られ、以後同寺を以って田原戸田家の菩提寺となったという。長男の喬知は妻の父・秋元富朝の養子となり甲斐谷村藩を継承、家督は次男の忠真が継いだ。2人は後に老中に就任した。
赤穂事件に関与した高田郡兵衛は元々小笠原長重の家臣であったが、その後浪人し、忠昌の口利きで播磨赤穂藩浅野長矩に仕えたという。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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