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戸田忠至 : ウィキペディア日本語版
戸田忠至[とだただしいたり]

戸田 忠至(とだ ただゆき)は、江戸時代後期(幕末)から明治時代前期にかけての武士、大名。下野宇都宮藩の重臣、後に下野高徳藩の初代藩主。江戸幕府若年寄でもあった。
== 来歴 ==
文化6年(1809年)、宇都宮藩の重臣田中忠舜(第2代宇都宮藩主戸田忠翰の弟で、200石の重臣として5代藩主戸田忠明や6代藩主戸田忠恕を補佐した)の次男として生まれる。文政元年(1818年)3月に家臣の木村内蔵助の養子となったが、文政12年(1829年)11月、養子縁組を解消される。天保4年(1833年12月23日、宇都宮藩の家臣となり200石を知行した。天保13年(1842年3月25日、重臣の間瀬氏を相続し600石を知行した。後に加増されて1000石となる。用人や番頭職を歴任した。弘化元年(1844年)6月に家老安政3年(1856年)10月に上席家老になった。
文久2年(1862年閏8月14日、幕府が宇都宮藩の提出した山陵修補の建白を採用した。この頃、戸田姓に改める。同年10月22日、宇都宮藩が幕府より天皇陵補修の命を受け、忠至は山陵奉行に任じられた。文久3年(1863年1月21日、従五位下大和守に叙任する。元治元年(1864年)1月29日に大名格となり、同年7月12日に諸侯に加えられた。同年末までに畿内における山稜全ての補修を終了、慶応元年(1865年9月25日に幕府はその功績に対し2000両を支給した。
元治元年に天狗党の乱が発生すると、水戸天狗党による藩への援助要請を拒絶したが、乱後、追討しなかったために幕府から結託を疑われ、宇都宮藩は陸奥棚倉への減移封を命じられようとされた。しかし、山稜修補の功労者であった忠至が朝廷に運動した結果、移封は中止となった。
慶応2年(1866年)3月、藩主戸田忠友は忠至の功により1万石を分与し、高徳藩を興した。同年12月28日、幕府から禁裏付頭取との兼任を命じられる。慶応3年(1867年7月5日、若年寄との兼任を命じられる。慶応4年(1868年1月20日、新政府から参与兼会計事務掛を命じられる。同年4月29日京都裁判所副総督との兼任を命じられ、閏4月22日従四位上に昇進する。明治2年(1869年5月15日に隠居し、長男の忠綱に家督を譲った。同年12月12日、明治政府は山陵修復の債務に苦しむ忠至に対し、7000両を支給した。明治16年(1883年)、死去、享年75。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「戸田忠至」の詳細全文を読む



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