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戸田氏共[とだしども]
戸田 氏共(とだ うじたか)は、江戸時代末期(幕末)の大名、明治から昭和期の華族。美濃国大垣藩第11代藩主。大垣藩戸田家12代。位階勲等爵位は従一位勲一等伯爵。官職はオーストリア=ハンガリー全権公使、式部長官など。 == 生涯 == 嘉永7年(1854年)7月23日、第9代藩主戸田氏正の五男として生まれる。慶応元年(1865年)10月3日、長兄の第10代藩主氏彬の病死により、その末期養子として家督を継いだ。翌慶応2年(1866年)7月19日、従五位下采女正に叙任する。慶応4年(1868年)1月10日、鳥羽・伏見の戦いの敗戦により、新政府から朝敵として入洛禁止を命じられた。そうした状況のなか、家老の小原鉄心が藩論を勤王・恭順にまとめ上げた。同年1月16日、氏共は直ちに上洛して新政府に謝罪し、官軍の東山道鎮撫使の先鋒役を務めることになった。4月15日、正式に朝敵から除外され、戦後は一転して賞典禄が授与された。 明治2年(1869年)6月18日、大垣藩知事に就任する。明治3年(1870年)閏10月19日、大学南校への入学を願う。明治4年(1871年)2月、アメリカ留学のために知藩事職を辞任する。同年4月4日に横浜港を出発し、弟氏益らも同行した。 帰国後の1879年(明治12年)10月に文部省御用掛を命じられた。1884年(明治17年)、伯爵を授けられる。1886年(明治19年)3月に公使館参事官、1887年(明治20年)5月に弁理公使と累進し、同年6月にオーストリア=ハンガリー全権公使となった。さらに、1892年(明治25年)に宮内省の狩猟官、1897年(明治30年)に諸陵頭兼主猟官、1898年(明治31年)に式部官兼狩猟官、1900年(明治33年)5月に宮中顧問官、1905年(明治38年)9月に式部長、1908年(明治41年)1月に式部長官となった。1907年(明治40年)11月、勲一等瑞宝章受章。1921年(大正10年)10月、式部長官を退任する。 1936年(昭和11年)2月17日、旧大名の中でも長寿の83歳で死去した。戸田一西以降の歴代当主とともに大垣の常葉神社において祭神として祀られている。婿養子の氏秀(大河内輝声の四男)は早世していたため、外孫の氏忠(氏秀の四男)が家督を継いだ。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「戸田氏共」の詳細全文を読む
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