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成久王妃 房子内親王(なるひさおうひ ふさこないしんのう、1890年(明治23年)1月28日 - 1974年(昭和49年)8月11日)は日本の皇族で、北白川宮成久王の妃である。明治天皇の第七皇女(母は権典侍・園祥子)。 == 生涯 == 幼少時より、すぐ上の姉・常宮昌子内親王(後の竹田宮恒久王妃)とともに高輪御殿で養育される。 1904年(明治37年)、日露戦争の折りには姉妹で全戦没者の氏名・没地等を直筆で書いた名簿を御殿の一室で祀っていた。その後、この直筆の名簿は靖国神社に奉納されている。 1909年(明治42年)4月29日、北白川宮成久王と結婚する。同日、勲一等宝冠章を受章。家庭的な良妻賢母で、成久王によく尽くした。1923年(大正12年)、成久王らと供フランス遊学中、成久王の運転する車が事故を起こし成久王は即死、房子も複雑骨折の大怪我を負う。そのため、以後は足が不自由となる。ただ、同時期に彼女はオートクローム、つまりカラー写真で撮影されている。 さらに長男の永久王も、1940年(昭和15年)9月に陸軍の演習中に事故死した。 1947年(昭和22年)に女性初の神宮祭主となり、神社本庁総裁も務める。同年10月14日、皇室典範第11条1項により皇籍を離脱し北白川房子となる。夫・長男が相次いで事故死する中、戦後の混乱期を実質的な女当主として借家住まいなどの苦労を重ね財産の保持に尽力、旧宮家では没落を免れた数少ない例となった。皇室関係者からは明治天皇の皇女として生まれながら数々の不遇にも負けず生きてきた生き様を賞賛して、皇族時代と同じように「房子大妃」や「大妃様」など呼ばれていたという。なお永久王の妻:北白川祥子は、1969年(昭和44年)より香淳皇后の女官長を務めた。 1974年(昭和49年)8月11日、死去。明治天皇の子女のうち戦後まで存命だったのは、彼女と妹の東久邇聡子のみであった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「成久王妃房子内親王」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Fusako Kitashirakawa 」があります。 スポンサード リンク
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