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所 郁太郎(ところ いくたろう、天保9年2月16日(1838年3月11日) - 慶応元年3月12日(1865年4月7日))は、幕末の志士。本業は医者で、井上聞多(後の井上馨)遭難の際に、井上を治療した人物として知られる。 ==生涯== 美濃国赤坂の醸造家・矢橋亦一の子として生まれ、同国大野郡の医者所伊織の養子となった〔『郷土徳育資料』90-91頁 〕〔『西濃人物誌』23 -25頁〕。初め、加納藩医・青木松軒、次いで京の安藤桂洲に学ぶ〔〔。このころ、同じく美濃出身の梁川星巌と親交を結んだ。万延元年(1860年)には大坂の適塾に入り、緒方洪庵に学んだ後、京にて医者として開業〔〔。近傍に長州藩邸があったことから、郁太郎の治療を請う長州藩士が多く〔〔、この頃から長州藩士と交わり、尊王思想の大義を説いている。 文久3年(1863年)には長州藩邸内の医院総督となり、八月十八日の政変では長州に下向している〔〔。 元治元年(1864年)、長州藩領の吉敷郡に開業し、同年9月には刺客に襲われて瀕死の重傷を負った井上聞多(後の井上馨)の治療にあたり、井上の一命を救うのに成功している〔〔〔『世外井上公伝』180 -183頁〕。この時、郁太郎は手術道具を持っていなかったが、たまたま数日前から屋敷に出入りしていた畳職人の畳針を借りて傷口の縫合を行い、これによって井上は一命を取り留めた。郁太郎が井上の屋敷に着いた時には、すでに長野昌英、日野宗春という2人の医者がいたが、重傷で手を付けられず、郁太郎が両医師の補助を受けつつ約50針に及ぶ縫合を行った〔。 翌年には遊撃隊参謀として高杉晋作を助けて転戦したが、陣中で腸チフスにかかり、吉敷村の陣営で没した〔〔。享年28。墓は山口県山口市吉敷上東に現存している〔『山口史蹟概覧』62-63頁 〕。 明治31年(1898年)、遺功により従四位を追贈された〔〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「所郁太郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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