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扇谷上杉氏 : ウィキペディア日本語版
扇谷上杉家[おうぎがやつうえすぎけ]

扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)は、室町時代関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつ。戦国時代には河越城に本拠を移し、武蔵国を拠点とする大名となり、南関東に勢力を扶植した。
== 歴史 ==
扇谷上杉氏は室町幕府を開いた足利尊氏の母方の叔父にあたる上杉重顕を祖とする家で、南北朝期の貞治年間に重顕の養孫にあたる上杉顕定が関東に下向し、重顕の兄弟上杉憲房の諸子から出た諸上杉家と同じく鎌倉公方(関東公方)に仕えて鎌倉扇谷(現在の鎌倉市扇ガ谷)に居住したことから扇谷家の家名が起こった。
扇谷家は他の上杉諸家と同じく関東管領を継承する家格をもったが、事実上の宗家である山内上杉家が関東管領をほとんど独占したため、室町時代の前半にはさほど大きな勢力を持った家ではなかった。応永23年(1416年)の上杉禅秀の乱では鎌倉公方方、鎌倉公方が滅亡した永享の乱では関東管領山内上杉憲実方にと、勝利した側について活動している。この時の当主・上杉持朝は永享の乱後に修理大夫に任ぜられ、続く結城合戦後には相模守護に任ぜられている。これは永享の乱後、山内上杉憲実の隠退の意思が固く、後継者に指名された山内上杉清方の経験不足を憂慮した室町幕府が持朝にその補佐を期待したためとみられている〔木下聡「結城合戦前後の扇谷上杉氏-新出史料の紹介と検討を通じて-」(初出:『千葉史学』55号(2009年)/所収:黒田基樹 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第五巻 扇谷上杉氏』(戒光祥出版、2012年)ISBN 978-4-86403-044-1)〕。
文安4年(1447年)には足利成氏が下向して鎌倉公方が再興されるが、宝徳2年(1450年)には鎌倉公方・成氏と山内上杉憲忠が対立し(江の島合戦)、成氏はこの時に山内家家宰長尾景仲と扇谷家・家宰太田道真を非難している。
鎌倉公方と関東管領の対立は一時的に和睦が成立するが、享徳3年(1454年)鎌倉公方・成氏に山内憲忠が暗殺され、全面戦争となる(享徳の乱)。足利成氏は古河を拠点とし(古河公方)、第8代室町将軍足利義政は関東管領方に加担して異母兄の足利政知を送り込み、政知は伊豆において堀越公方となった。堀越公方・政知並びその側近・渋川義鏡との対立〔堀越公方は伊豆国を本拠地としていたが、自身や渋川義鏡をはじめとする京都から下向した家臣の基盤として相模国などの近隣の在地領主の土地に進出しようとしたため、扇谷家と対立した(木下聡『中世武家官位の研究』2011年、吉川弘文館、P324-325)。〕はあったものの、扇谷家は相模を中心とする戦国大名として成長した。享徳の乱において扇谷上杉氏は上杉持朝が家宰太田道真に命じて河越城江戸城岩槻城を築城させて武蔵の分国化の足がかりを築き〔但し岩槻城については、太田道真・道灌父子でなく成田正等による築城説が今は主流である。〕、河越に拠点を移した。
文明9年(1477年)には山内家家臣・長尾景春が主君上杉顕定に反乱を起こし山内顕定を上野に追い、文明10年(1478年)には長尾景春に味方した古河公方・成氏と山内顕定の間に和睦が成立する。長尾景春の乱は扇谷家の領国武蔵において展開されているが、扇谷家家宰太田道灌は乱の平定を主導しており、扇谷家でも山内家と同様に当主と家宰との対立関係が発生し、文明18年(1486年)に道灌は主君上杉定正により暗殺されている〔なお、長尾景春の乱と道灌暗殺に共通する主君と家宰との対立関係の背景には、室町時代には主君が在京奉公し領国経営は家宰が担当する役割分担があったが、戦国期に関東情勢が乱国化したことにより主君自らが在国して領国経営にあたったことから家宰との主導権争いが生じていたことが考えられている(丸島和洋「関東戦国時代の幕開け」『別冊太陽戦国大名』2010)。〕。
その後は関東の領有をめぐり山内家との対立が顕在化し、堀越公方・政知を擁した山内家に対し扇谷家は古河公方・成氏に接近して、両家は対立する(長享の乱)。明応2年(1493年)には扇谷定正の命で伊勢宗瑞(後の北条早雲)が堀越公方・政知を攻撃しているが、伊勢宗瑞(北条早雲)は伊豆において自立し子孫は後北条氏となる。同盟関係にあった古河公方成氏は分裂により衰亡していたほか、山内方の相模の領地は伊勢宗瑞(北条早雲)に次第に切り取られて支配権を失い(大森藤頼小田原城等。ただし藤頼は、山内上杉に寝返っていたため、扇谷上杉家が宗瑞に派兵を依頼したものを、宗瑞がそのまま領国化したものである)、上杉朝良(上杉定正の甥で次の扇谷家当主)は伊勢宗瑞(北条早雲)と宗瑞の甥で主君である駿河守護今川氏親の軍事支援で立河原の戦いは勝利する物の、自らは積極的な対応策を打たず河越城を包囲されて扇谷側の降伏の形で長享の乱は収束する。
しかし、山内家・扇谷家・古河公方それぞれの家が内紛状態に入り永正の乱が発生してしまう。この騒動に付け入られる形で相模を後北条氏に浸食され、永正13年(1516年)には相模における扇谷家の重鎮・三浦道寸の滅亡を招いてしまう。
やがて後北条氏は武蔵への侵攻を開始し、大永4年(1524年)に上杉朝興(上杉朝良の甥で次の扇谷家当主)は江戸城から川越へ逃れる。甲斐武田信虎(信直)は両上杉氏と同盟して後北条氏と対決した。扇谷朝興は天文2年(1533年)に信虎嫡男の武田晴信(後の信玄)に娘を嫁がせて婚姻を結んでいたが、武田信虎は扇谷朝興死去の翌天文7年(1538年)に後北条氏と和睦して離反している。
扇谷朝興の子上杉朝定は山内家と和解して後北条氏との戦いに臨むが、天文15年(1546年河越夜戦で戦死(異説あり)し、扇谷家は滅亡した。
扇谷家の名跡は一族の上杉憲勝が継ぎ、永禄4年(1561年)山内家の家督と関東管領職を継承した越後の長尾景虎(上杉謙信)によって武蔵松山城主に据えられるが、永禄6年(1563年)に後北条氏に降伏した。その後の動向は詳らかではない。
なお、山内家の名跡を継ぐ米沢藩上杉綱憲の実父吉良義央は扇谷家の血統を引いているため、それ以降の上杉家にも扇谷家の血統は残っている〔吉良義央の父・義冬と祖父・義弥の母は共に駿河今川氏出身で、駿河今川氏6代当主・今川義忠の母が扇谷上杉家出身。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「扇谷上杉家」の詳細全文を読む



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