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松田 丈志(まつだ たけし、1984年6月23日 - )は日本の競泳選手でアテネオリンピック・北京オリンピック・ロンドンオリンピック日本代表。セガサミーホールディングス所属(2014年3月より)。宮崎県延岡市出身。主な競技種目はバタフライ及び自由形。これまでにバタフライ200mや自由形200m・400m・800m・1500mで日本記録を何度も更新してきた。血液型はO型。 == 略歴 == 松田の幼少時の練習環境は決して恵まれたほうではなかった。地方都市出身ということもあり、地元には本格的なスイミングクラブも少なく、松田が通っていた東海(とうみ)スイミングクラブは屋根が『ビニールハウス』でできたつくりのものだった。しかし、元競泳選手だった久世由美子コーチの指導の下、日本選手権で実力を発揮して代表の座をつかむと、その練習環境に注目が集まるようになり、『ビニールハウス生まれのヒーロー』『ビニールハウスのヒーロー』と称されるようになった。 2003年に中京大学に進学。延岡学園高等学校卒業までとは一変した恵まれた練習環境で、松田は更に力をつけ、2004年のアテネオリンピックや2005年の世界選手権等の国際競技大会日本代表として数多くの実績を残した。 2007年に中京大を卒業後は、寺川綾らとともにミズノ入社。6月にミズノがSPEEDOブランドライセンシーから自社水着発売に切り替えたのに合わせ、「ミズノスイムチーム」結成に参加。今後は「ミズノスイムチーム」の一員として競技に臨んだ。 北京五輪の代表選考を兼ねた2008年の日本選手権では、水連独自設定のタイムを突破して400m自由形で優勝し、同競技における日本代表選手第1号となった。五輪前のジャパンオープンにて200mバタフライの日本記録・アジア記録を更新。北京オリンピックでは200mバタフライで自身の日本記録・アジア記録を大幅に更新して銅メダルを獲得した。ジャパンオープンや北京オリンピックで松田は所属するミズノ社の水着を使用せず、スピード社の水着で参加した。銅メダル獲得後のインタビューにて銅メダルのことを『自分色のメダル』と言っていた。 北京オリンピックの活躍が認められて宮崎県民栄誉賞と延岡市民栄誉賞を受賞した〔。 2008年12月26日、ミズノ社は同年12月31日を以てミズノスイムチームとの所属契約満了を発表し、松田選手はミズノを退社。その後レオパレス21と契約した。 2009年12月8日、レオパレス21が「契約を今年限りで満了する」と発表し、契約更新されなかった〔レオパレス21が競泳松田と契約更新せず 日刊スポーツ2009年12月8日閲覧〕。そのため2010年から暫定的に東海SC所属という形として、新しい所属先を探していたが、2010年10月17日、延岡市創業で福岡県を拠点とするドラッグストアのコスモス薬品と所属契約を結んだことが発表された〔「引退もよぎった」松田 新所属先決定にホッ スポーツニッポン 2014年3月27日閲覧〕。 2010年11月13日、広州アジア大会 200mバタフライにおいてアジア大会の個人種目では自身初となる金メダルを獲得。 2012年7月31日、ロンドンオリンピック 200mバタフライにおいて二大会連続の銅メダルを獲得。男子400mメドレーリレーでは日本男子史上初の銀メダルを獲得。そのレース終了後のプレスインタビューの際に「(北島康介を)手ぶらで帰らせるわけにはいかない」とコメント。これが2012年新語・流行語大賞のトップテンに選出された。 2012年11月25日、第44回東京SCジュニア優秀選手招待公認記録会に招待選手として50mバタフライに出場した。そして、記者からのインタビューで現役続行の決意を伝えた。 2012年12月11日、都内で会見し、「もう一度世界一を目指すと決めました」と現役続行を宣言した。久世由美子コーチのもとを離れ、東京・国立スポーツ科学センターを拠点に平井伯昌コーチに師事することになった〔松田涙の現役続行 24年間師事した久世コーチと別れ スポーツニッポン 2014年3月27日閲覧〕。 2013年12月31日、コスモス薬品との所属契約が終了〔ご報告 松田丈志オフィシャルサイト 2014年03月27日閲覧〕。 2014年3月26日、マネジメント会社を通じセガサミーホールディングスと所属契約を結んだと発表した(所属契約期間は2014年3月1日から2016年12月末まで)。再び久世由美子コーチの指導を受ける〔松田、セガサミーと契約 久世コーチと再びコンビ MSN産経ニュース 2014年3月27日閲覧〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「松田丈志」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Takeshi Matsuda 」があります。 スポンサード リンク
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