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手塚 一志(てづか かずし、1963年1月5日 - )は、徳島県三好郡井川町出身のパフォーマンスコーディネーター、体育学修士、スポーツ上達工房「上達屋」代表。シンクロ打法、うねり打法、ジャイロボール、W-スピン、クオ・メソッドなどの発表で知られる、スポーツ科学者。東北楽天ゴールデンイーグルス・パフォーマンス・コーディネーター。 2013年よりSWBC・JAPAN(ストロングリーグ日本代表)パフォーマンス・コーディネーター。2015年より理化学研究所客員研究員。 == 人物 == *万人に共通する野球の各種必須動作をピックアップしたとする「正体」シリーズを皮切りに、数々のスポーツ動作に関する著書、ビデオを発表、テレビ、雑誌等のメディアへの出演、執筆する等の啓蒙活動を続けている。計29冊の書籍の累計総発行部数は67万部を越えるという。 *著書においては、それまでの経験論や感覚的な指導指導や練習に疑問を呈し、ヒトとして理に適ったカラダの操り方から発想した上達術や理論を展開している。 *1990年代初頭のダイエーホークス時代、肩周辺の機能について福岡にある久恒病院の原正文医師に師事。肩周辺の筋機能の調整エクササイズである「インナリング」(サークルスクラッチ等)開発、ホークス投手陣のコンディショニングメニューに組み込み、肩周辺の傷害の発生率を低減することに成功する。※1990年 32%→1992年 6%(%は障害発生によるリタイア=登録抹消率。※手塚一志著『肩バイブル』15ページより抜粋)。 *1993年自らホークスを退団し、一人で起業。このとき自らをパフォーマンスコーディネーターと名乗り、上達屋の前身となるアスリートパフォーマンスサポート業をスタート。最初のクライアントは桑田真澄と工藤公康だった。これまでのトレーナーやコーチとは異なり、選手のパフォーマンス全体つまり心技体を一まとまりととらえ、投げるという行為のパフォーマンス向上・打つという行為のパフォーマンス向上のサポート約として活動を始める。 *1993年に大村皓一率いる人口技能研究グループに参加し、共同研究を行った結果、ヒト本来の動作の本質であるとする新運動原理(現W-スピン運動原理)を発見。野球の動作に精通する以前はアメリカ仕込みの当時最新と言われた直線的な筋力トレーニングをコンディショニングメニューとして実践していたこともある。新運動原理を発見した以降はそれ以前のトレーニングの実践と理論を反省・方向転換し、従来考えられてきた直線的なプッシュ&プル動作を多用する筋力トレーニングに否定的、懐疑的な論調を展開。 *このW-スピンの発想を元に、アスリートのパフォーマンスを向上させる上達メソッドクオ・メソッドを開発。野球選手のみならず、陸上競技、ラグビー、テニス、ゴルフ、相撲、ボクシング、サッカー、レスリング、競輪などほとんどのスポーツ種目に転用可能なことを証明していった。 *1995年に新たな直球系の球種としてジャイロボールの存在を提唱。2006年松坂大輔]]投手のレッドソックス]]に入団時にこの魔球を投じるとのうわさが全米を席捲。CNNを筆頭に、日米の各種メディアが取り上げ、ニューヨークタイムスでも1面をすべてを使って特集を組んでこの魔球を追いかける騒動に発展した。 *1995年投手の肩と腕のコンディショニングドリルサークルスクラッチを考案・発表。後に前田健太投手がこのドリルを試合中の調整法として採用。いわゆるマエケン体操である。 *1999年著書『バッティングの正体』の中でシンクロ打法を発表。18m44cm離れている投手と打者の空間に、互いの呼吸を合わせたり外したりする駆け引きの法則シンクロニスティック・コーディネーションがあることを知らしめた。このシンクロ打法を松井秀樹]]選手が採用し一躍ブームに。当時、ジュニアから高校野球、プロ野球に至るまで、この投手とのタイミングが合い打率が上がるとされる打法が大流行した。 *2002年から2年間、阪神タイガースの田淵幸一バッティングコーチの下で打撃指導を行った。その際、下半身からのらせん連鎖運動をバットコントロールに活かすうねり打法を導入。当時まだブレイク前だった今岡誠、濱中治、赤星憲広らの打力向上に貢献しつながる打線を実現。2003年の阪神優勝の陰の立役者として一躍注目を集めた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「手塚一志」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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