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手白香皇女(たしらかのひめみこ、仁賢天皇2年(489年)以前-没年不詳)は、古墳時代の皇族。継体天皇の皇后。仁賢天皇の皇女で、母は春日大娘皇女。同母弟に武烈天皇がいる。『古事記』の表記は手白髪郎女。子に欽明天皇。 == 生涯 == 仁賢天皇の皇女として誕生。母は雄略天皇の皇女である春日大娘皇女。 彼女が生まれる以前、父方の祖父である市辺押磐皇子が母方の祖父である雄略天皇によって殺害されたため、父の於奚(オケ。のちの仁賢天皇)と叔父の袁奚(ヲケ。オケの弟。のちの顕宗天皇)は逃亡して身を隠していた。その後、雄略天皇の皇子の清寧天皇は子をなさなかったため、袁奚(顕宗)と於奚(仁賢)は大王に迎えられ、それぞれ即位(弟の顕宗の方が先に即位)した。 その後、傍系であった父の仁賢は、雄略天皇皇女の春日大娘皇女を皇后として迎え入れたため、たがいの祖父の代から2つに分かれていた皇統は統一された。この間に生まれたのが武烈天皇や手白香皇女らである。 以後、2つの皇統の血筋を合わせた唯一の男子である武烈天皇により皇統が維持されるはずであったが、武烈天皇は子をなさず若くして崩御した。雄略天皇の粛清によって、他の皇族男子はのこっていなかったため、越前国〔『日本書紀』では越前三国(現福井県坂井市)、『古事記』では近江国と記す。〕から応神天皇の5世孫にあたる傍系のオホド(男大迹)王が大王として招かれた。これが継体天皇である。大王は、大連大伴金村の勧めにより、継体元年3月5日(507年4月2日)、手白香皇女を皇后にむかえ、継体天皇の統治が始まることになる。 手白香皇女が継体天皇の皇后となった理由として、母である春日大娘皇女の場合と同様、傍系天皇の正統性を立てるための政略的な要因が大きかったと考えられている。つまり、傍系に属し、先代天皇とのあいだの血縁が非常に遠い継体天皇は、先帝の同母姉である手白香皇女を皇后にすることにより、一種の入り婿という形で正統性を獲得したということである。継体天皇は大和に入る以前、現地で複数の妃(尾張目子媛ほか)をもち沢山の子(安閑天皇・宣化天皇他)がいたにもかかわらず、手白香皇女とのあいだの皇子である天国排開広庭尊(のちの欽明天皇)が正式な継承者とされていたことも、このような推論を裏づける。 このようにして継体天皇と手白香皇女との間に生まれた欽明天皇が、今日まで長く続く皇室の祖となった。皇統の危機を救い、男系ではないものの、直系の血筋を後世に受け継がせた手白香皇女の存在は非常に大きかったといえる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「手白香皇女」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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