|
手筒花火(てづつはなび)は、1メートルほどの竹筒に火薬を詰め、それを人が抱えながら行う花火である。手筒花火は、打ち上げ式ではなく吹き上げ式の花火で、その火柱は大きいものだと10数メートルにもなる。 愛知県豊橋市の吉田神社が手筒花火の発祥の地とされ、豊橋市のある愛知県東三河地方、および静岡県の遠州地方西部で特に盛んである。 == 起源 == 日本で花火が製造されるようになったのは16世紀の、鉄砲伝来以降である。 『宮中秘策』(1741年)によれば、1613年に徳川家康が江戸城内で花火を見物したという。この花火の1種が、手筒花火である。 徳川の砲術隊が、三河岡崎にこの技術を持ち帰り、三河・遠州で、花火(手筒花火)が盛んになったともいう。 さらに古くは、豊橋の吉田神社に残る記録「三河国古老伝」には「永禄元年(1588年)天王祭礼祀ノ花火ト云フ事始メル」とあり、 また「吉田神社略記」においては、「花火ノ創始ハ羽田吉田綜録ニ永禄三申庚年(1560年)今川義元公吉田城城代大原肥前守知尚公花火ヲ始ムトアリ、花火の尤古ヨリ用ヒラレシハ流星、手筒トス然レドモ其ノ大ナル者ナシ、次デ建物(仕掛花火)綱火等用ヒラルルモ亦然リ、建物ノ巨大ナリシハ元禄十三年(1700年)一シテ手筒ノ雄大トナリシハ正徳元年(1711年)ナリ云々」とある。 しかしながら、同時代史料の言継卿記には、弘治2年(1556)9月に、翌20日、吉田城に沢路隼人を派遣するが、城主伊藤左近は西三河に出陣して留守。という記述があり、吉田城の城主は伊藤左近となっており、大原肥前守であった事実は確認できない。江戸時代の編纂史料においても、桶狭間合戦後に三河統一戦において吉田城を徳川家康が攻撃する際には、大原肥前守となってはいるが、1557(弘治3)年 正月十三日(言継卿記)には、今川氏真の歌会の取次ぎ役に大原伊豆守(大原肥前守と同一人物とされる)が登場しており、今川氏真邸に詰めていたと思われ、吉田城主であったと思われない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「手筒花火」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|