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文化大革命[ぶんかだいかくめい]

文化大革命(プロレタリア文化大革命とも呼ばれる。簡体字:无产阶级文化大革命 繁体字:無產階級文化大革命)、通称文化大革命(ぶんかだいかくめい)は、中華人民共和国1966年コトバンク> ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典> 文化大革命とは 〕から1976年まで(終結宣言は1977年)続いた、社会的騒乱である。略称は文革(ぶんかく)。
名目は「封建的文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しよう」という政治社会思想文化改革運動だった。しかし実際は、大躍進政策の失敗によって政権中枢から退いた毛沢東が自身の復権を画策し、民衆を扇動して政敵を攻撃させ失脚に追い込むための、中国共産党の権力闘争であった。
これにより1億人近くが何らかの被害を被り〔『入門中国の歴史-中国中学校歴史教科書』1157頁 (明石書店 2001年11月発行)〕〔『解放軍報』(1980年12月9日)の記事「迫害狂・江青」〕、国内の大混乱と経済の深刻な停滞をもたらした。
== 概要 ==
当時の中華人民共和国の経済は大躍進による混乱ののち、実権を握った(実権派と呼ばれる)劉少奇国家主席や鄧小平総書記が、市場経済を部分的に導入し(このため、実権派はまた走資派とも呼ばれた)回復しつつあったが、毛沢東はこの政策を、共産主義を資本主義的に修正するものとして批判していた。「中国革命は、(劉や鄧のような)走資派の修正主義によって失敗の危機にある。修正主義者を批判・打倒せよ」というのが毛沢東の主張であった。
毛沢東主席の腹心の林彪副主席は指示を受け、民衆や紅衛兵に「反革命勢力」の批判や打倒を扇動した。実権派や、その支持者と見なされた中国共産党の幹部、知識人、旧地主の子孫など、反革命分子と定義された層はすべて熱狂した紅衛兵の攻撃と迫害の対象となり、組織的・暴力的な吊るし上げが中国全土で横行した。劉や鄧が失脚したほか、過酷な糾弾や迫害によって多数の死者や自殺者が続出し、また紅衛兵も派閥に分れて抗争を展開した。さらに旧文化として破壊の対象となった貴重な文化財が甚大な被害を受けた。
紅衛兵の暴走は毛沢東にすら制御不能となり、毛は1968年に上山下郷運動(下放)を主唱し、都市の紅衛兵を地方農村に送りこんで収拾を図る。その後林彪は毛と対立し、1971年9月毛沢東暗殺計画が発覚したとされる事件が起き、飛行機で国外逃亡を試みて事故死する(林彪事件)。林彪の死後も「四人組」を中心として文革は継続したが、1976年に毛沢東が死去、直後に四人組が失脚して、文革は終息した。
犠牲者数については、中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議(第十一届三中全会)において「文革時の死者40万人、被害者1億人」と推計されている〔『毎日新聞』1979年2月5日付記事。〕。しかし、文革時の死者数の公式な推計は中国共産党当局の公式資料には存在せず、内外の研究者による調査でも40万人から1000万人以上と諸説ある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Cultural Revolution 」があります。



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