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抜き打ち解散(ぬきうちかいさん)とは、1952年8月28日に行われた衆議院解散の通称〔読売新聞 1990.11.26 東京朝刊 朝特A 「国会100年の歩み」〕〔読売新聞 2001.08.28 東京朝刊 政治 04頁 「[きょうという日]8月28日」〕。 == 経緯 == 1946年、GHQ統治下のもと、第1次吉田内閣が誕生した。1951年に、サンフランシスコ講和条約締結によってGHQの占領が終了し、GHQによって公職追放されていた鳩山一郎らが追放を解除されると、鳩山を支持する鳩山系議員が吉田茂首相の辞任を要求した。こうして再び政局は混乱してきた。さらには吉田派の派内で広川弘禅と増田甲子七の派内抗争が表面化した。 1952年7月、吉田は自由党幹事長ポストを、増田から自身の側近であった1年生議員の福永健司を、議員総会において抜き打ちで指名を敢行した〔朝日新聞 1952年7月1日 東京/夕刊 1頁 「福永幹事長 首相が指名 議員総会混乱_“福永幹事長”問題」〕が、反対派が激しく抵抗し失敗に終わる〔朝日新聞 1952年7月30日 東京/夕刊 1頁 「福永氏“幹事長”を辞退 林衆院議長の就任決定_“福永幹事長”問題」〕。 吉田は、このような事態を打開するために、松野鶴平からの助言を受け、8月28日に不意をつく形で解散を断行する〔朝日新聞 1952年8月28日 東京/夕刊 1頁 「抜打ち解散まで_衆院解散」〕。この解散は、池田勇人蔵相、岡崎勝男外相、佐藤栄作郵政相、保利茂官房長官、党内の松野などを中心に側近集団のみで決定された。吉田派は密かに選挙の準備を進めておき、準備の整っていない鳩山派に打撃を与えようという目的であった。 大野伴睦は8月26日に衆議院議長に就任していたが、わずか2日後に衆議院解散が行われたため、在職期間わずか3日間で議長失職となった(総選挙後の10月の議長選挙で再選)。 この解散を受けて、10月1日に第25回衆議院議員総選挙が行われ、466議席中、自由党吉田派199議席、自由党鳩山派35議席という結果となり、自由党そのものは大きく議席を減らした。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「抜き打ち解散」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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