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拓跋力微(呉音:たくばつ りきみ、漢音:たくばつ りょくび、拼音:Tuòbá Lìwéi、174年 - 277年)は 、鮮卑族拓跋部の大人(たいじん:部族長、在位:220年 - 277年)。拓跋詰汾の子。息子に拓跋沙漠汗、拓跋悉鹿、拓跋綽、拓跋禄官がいる。玄孫の拓跋珪が北魏を建国すると、始祖の廟号、神元皇帝の諡号を追贈された。 == 生涯 == 174年、聖武帝(拓跋詰汾)と天女の間に生まれる。 神元帝元年(220年)、西部の侵入で国民が離散し、力微は没鹿回部の大人(たいじん:部族長)の竇賓(とうひん)につき従っていた。のちに西部を攻めるが敗走した。逃げる際、馬を失い徒歩で逃げていたところを、力微が馬を調達して来て竇賓らはなんとか逃げることができた。これにより、竇賓は力微に国土の半分を与えようとするが、力微は拒んだので、代わりに娘を嫁がせた。 神元帝29年(248年)、竇賓は臨終に至り、2人の息子に力微に仕えるように伝えたが、2人は従わなかったので、力微は2人を呼び寄せて殺した。これにより、諸部大人は力微に心服した。 神元帝39年(258年)、力微は定襄郡の盛楽に遷都した。夏4月、天を祭った。諸部君長はみんな祭にやってきたが、白部大人の観望のみが出席しなかったので、力微は観望を征伐した。このとき、力微は魏と和親をはかることを決めた。 神元帝42年(261年)、力微は太子の沙漠汗を遣わして魏に赴かせた。そのとき魏の景元2年であった。 神元帝48年(267年)、沙漠汗が晋より帰国する。 神元帝56年(275年)、沙漠汗は再び晋に赴くが、留まらせられる。このころから晋の衛瓘は「離間の計」を謀り、諸大人に賄賂を送り始める。 ''咸寧元年(275年)6月、力微は子の沙漠汗を遣わし晋に来献する。〈『晋書』武帝紀〉'' 神元帝58年(277年)、ようやく沙漠汗は返され、力微は大喜びで出迎えるが、衛瓘から賄賂を貰っている諸大人は、晋の文化に染まってしまった沙漠汗の姿を見て、謀反の心ありとし、あらぬ疑いをかけた。力微は沙漠汗を疑わなかったが、すでに百歳を超える高齢で、はっきりしないので、諸大人は力微の命だと偽り、沙漠汗を殺した。力微は甚だこれを悔んだという。その後、力微は病気を患い、烏丸王の庫賢に軍を任せた。しかし、庫賢も衛瓘の賄賂を受け取っており、庫賢は大いに国をかき乱してやった。そんな中、力微は死去した。享年104、58年間の統治だった。 ''咸寧3年(277年)春1月、武帝は征北大将軍衛瓘に命じて力微を討つ。〈『晋書』武帝紀〉'' 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「拓跋力微」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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