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拓跋翳槐(呉音:たくばつ えいえ、漢音:たくばつ えいかい、拼音:Tuòbá Yīhuái、? - 338年、在位:329年 - 335年、337年 - 338年)は、鮮卑拓跋部の大人(たいじん:部族長)および代国の王。拓跋鬱律の長男で、拓跋什翼犍の兄。 == 生涯 == 煬帝3年(327年)、羯族の石勒は石虎を遣わし五千騎を率い辺部に来寇、代王の拓跋紇那はこれを句注陘北で防ぐが、不利となり、大寧に遷都する。時に舅の拓跋翳槐は賀蘭部にいた。拓跋紇那は遣使を送り救援を求めるが、賀蘭部の帥の藹頭は、救援の派遣をしなかった。拓跋紇那は怒り、宇文部並びに軍勢を召して藹頭を撃つが、宇文の衆は敗け、拓跋紇那は大寧に帰る。 煬帝5年(329年)、拓跋紇那は宇文部へ亡命する。賀蘭部及び諸部大人は、拓跋翳槐を共立し、翳槐は代王となる。煬帝5年を烈帝元年とする。石勒は遣使を送り和親を求め、拓跋翳槐は弟の拓跋什翼犍を襄国に遣わした。 烈帝2年(330年)、石勒が僭立し、自ら大趙王と称す。 烈帝5年(333年)、石勒が死んで、子の石弘が趙の皇帝に即位する。慕容部では、慕容廆が死んで、子の慕容皝が代立する。 烈帝6年(334年)、石虎は石弘を廃し、自ら僭立する。成の皇帝李雄が死んで、兄の子の李班が立つ。李雄の子の李期が李班を殺して自ら立つ。 烈帝7年(335年)、藹頭は臣職を修めず、拓跋翳槐が召してこれを殺したので、国人はふたたびふた心を持つ。拓跋紇那が宇文部から戻ったので、諸部大人はふたたびこれを奉じる。拓跋紇那は複立し、烈帝7年を煬帝後元年とする。拓跋翳槐は鄴へ亡命、石虎は第宅・伎妾・奴婢・什物を奉じる。 煬帝後3年(337年)、石虎は将の李穆を遣わし5千騎を率い拓跋翳槐を大寧で引き入れる。国人の6千余落は拓跋紇那に叛き、拓跋紇那は慕容部へ亡命。拓跋翳槐は複立し、煬帝後3年を烈帝後元年とする。新しく故城の東南10里に在る盛楽城に遷都した。復位1年で卒去した。弟の拓跋什翼犍が後を継いだ。 のちに、北魏の道武帝により烈皇帝と追尊された。玄孫に東陽王の元丕がいる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「拓跋翳槐」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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