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捕虜(ほりょ, Prisoner of war, POW)とは、武力紛争(戦争、内戦等)において敵の権力内に陥った者をさす。近代以前では、民間人を捕らえた場合でも捕虜と呼んだが、現在では捕虜待遇を与えられるための資格要件は戦時国際法により「紛争当事国の軍隊の構成員及びその軍隊の一部をなす民兵隊又は義勇隊の構成員〔1949年のジュネーヴ第3条約 第4条A(1)〕」等定められている〔捕虜の定義は、1907年のハーグ陸戦条約附属規則では第1条~第3条、1929年の俘虜の待遇に関する条約では第1条、1949年のジュネーヴ第3条約では第4条にある。〕。 第二次世界大戦以前では、公式には俘虜(ふりょ)と呼ばれた〔例:ハーグ陸戦条約(陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約)では、prisonniers de guerre(フランス語)の訳語に「俘虜」を用いている。〕。 なお、古代中国においては、中国に攻め込んできた野蛮人(虜)を捕らえる事を捕虜と称した(例:「捕虜将軍」)。 == 近代国際法確立前 == 近代国際法が確立する前まで、かつては捕虜は捕らえた国が自由に処分しうるものであった。 捕虜は、それを勢力下に入れた勢力によって随意に扱いを受け、奴隷にされたり殺されたりした。一方、能力を認められた者は厚遇して迎え入れられることもあった。中世ヨーロッパでは相手国や領主に対し捕虜と引き換えに身代金を要求する事がよく行われた。ただし李陵(前漢の将軍)など敵方から名誉ある扱いを受ける例もあった。これは奴隷でも学のある者が重用されることがあったのと同様の現象と言える。 加えて、捕虜に対して安易に虐待や殺害を行うことは、敵兵に投降の選択を失わせ戦意を向上させてしまう恐れもあることから、その意味でも捕虜に対して相応の扱いをする例はあった。日本の鎌倉時代末期において、前述の事情から助命されるだろうと期待して、赤坂城の反幕府の兵士が幕府に降伏した所、予想に反して全員が殺害されてしまい、それがために同じく反幕府の千早城の兵が激怒し、かえって戦意が高まったという逸話がある。 また、乱戦の中や負傷時に意に反して敵方に捕縛されるケースなどはともかく、自らの意志により投降することは、すなわち敵方に仕えようとする意志表示とみなされた。そのため多くの社会において投降は利敵行為同様の犯罪とされた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「捕虜」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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