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掃除山遺跡(そうじやまいせき)は、鹿児島県鹿児島市に所在する縄文時代草創期〔約1万3000年~1万年前〕の遺跡である。 == 概要 == 列島の温暖化がすすみ、針葉樹林を主体としていた森林は、落葉広葉樹と照葉樹の森林へと変化していき、西日本から太平洋沿岸地域を東へと拡がっていった。 このような気候・環境において、南九州の鹿児島県では、草創期の遺跡が多く発見されている。その中の一つに掃除山遺跡がある。 約1万1000年前に降下した薩摩火山灰の下から発見された掃除山遺跡では、 2棟の竪穴住居跡をはじめとして、煙道つき炉穴(ろけつ)、舟形や円形をした配石炉、つまり地面に穴を掘って火をたいた調理用の施設、土坑、植物食料の製粉具である磨石(すりいし)や石皿という、ドングリやクルミなどの木の実を割って砕いたり、製粉する道具類など各種の遺構・遺物が纏まって出土した。 これらの道具類は時代と共に各地でその量が増え、少なくとも前期では、日本各地の村からもっともよく発見される道具類となる。つまり縄文時代の主食が、森の資源の一つであるドングリなどの木の実に移り変わるのである。 これだけみると、縄文時代の定住集落の要件をほぼ備えているように思える。しかし、約300平方メートルという狭い範囲にまとまっていて広場をともなわない、土器や石皿、磨石などの遺物の量も少なく、特に竪穴住居の廃絶後に使用された配石炉もあることから、この遺跡を生活の場としていた人々は、常に竪穴住居を使用しているわけではなく、長期に定住するような本格的な集落(定住集落)を形成するには至らなかった、と捉えられている。 やせ尾根の狭い平坦地から北風を避けられる南向きの急斜面にかけて分布するという立地の特徴から、調査者の一人は、掃除山遺跡の竪穴住居を秋に採集した堅果類の貯蔵と利用を兼ねた越冬のための居住地と考えた。 この遺跡も旧石器から縄文への移行期〔縄文文化を成立させるための準備の期間〕の中にあった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「掃除山遺跡」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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