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摂政(せっしょう、英:Regent)とは、君主制を採る国家において、君主が幼少、女性、病弱、不在などの理由でその任務(政務や儀式)を行うことができない時、君主に代わってそれを行う(政を摂る)こと、またはその役職のことである。多くの場合、君主の後継者(皇太子など)、兄弟、母親、あるいは母方の祖父や叔父などの外戚が就任する。 == 日本の摂政 == === 前近代 === 『日本書紀』の中で神功皇后が執政した時期は「神功皇后摂政紀」と呼ばれているが、これは同皇后紀を呼ぶ場合の便宜的な呼称であり、摂政という用語は神功皇后紀の本文中には登場しない。また、神功皇后には非実在説もある。 一般には、日本史上における摂政とは天皇の勅令を受けて天皇に代わって政務を執ることまたその者の職であると定義される。『日本書紀』によると推古天皇の時の厩戸皇子(聖徳太子)が摂政となったとされており、通説ではこれが日本史上における摂政の最初であるとされている。ただし、これについては学界で否定論も見られる。 以降何人かの皇族が摂政を行ったが、律令において摂政を執る役職は規定されなかった。しかし、866年に藤原良房が臣下として初めて摂政となって以来、天皇の外戚となった藤原氏(藤原北家)の者が摂政・関白に就く例が生まれるようになった。ただし、良房が摂政に就任したときには清和天皇は既に成人した後のことであり、幼少の天皇には摂政が、成人後の天皇には関白が置かれる慣例が確立したのは61代の天皇(朱雀天皇)の在位中に摂政から関白に転じた藤原忠平が初例であるとされている。 ここにおいて、摂政は天皇に代わって政務を執る者の職である令外の官として定義されることとなった。摂政は幼い天皇に代わって政務を摂する(代理する)とともに、当時において天皇の主要な大権であった官奏を覧ずることと除目・叙位を行うことを執り行った。なお、関白は成人に達した天皇の補佐をする役割であり、天皇代行としての摂政とは性格が異なっている。 藤原氏の下で摂政は職事官である大臣に付随して兼務する官職と考えられてきたが、寛和2年(986年)藤原兼家の時に職事官である右大臣を辞任して摂政のみを占める散官になった。この時、摂政の待遇に関して明法勘文と明経勘文が出された。 前者においては、 :一、三公(太政大臣・左右両大臣)は太政官の長官であるが、摂政は職事官ではない。 :二、律令では官人の序列は官位に従うとされ、原則は一位が筆頭となるが、職事官が散官よりも優先されるため、一位の散官は中納言の次、参議の上に相当する。 :三、ただし兼家は既に三公の待遇を上回る准三宮の待遇を受けており、三公より上位の席次が認められる。そうで無いとしても摂政任命の詔に「万機の勤」を命じているため、詔勅がその待遇を定めればこれに従う。 とし、後者においては、摂政は三公とは別格で一般公卿と同列にすべきではない(従って、宮中に置いては三公より上位とすべきである)と論じた。 11世紀の藤原道長の頃からは建武の新政期を除き、摂政もしくは関白は常置の官となった。以降は外戚関係に関わりなく、常時摂政・関白のいずれかを藤原道長の子孫(御堂流)が占めるようになった。 鎌倉時代以降、藤原北家御堂流は近衛家、一条家、鷹司家、九条家、二条家の五摂家に分かれ、代々そのうち最も官位の高い者が摂政・関白に任ぜられる例となって、明治維新まで続いた。この例外は、藤原氏以外で関白となった豊臣秀次の1名である。(秀吉は近衛家猶子、藤氏長者、藤原秀吉として関白になる。)ただし、藤原氏以外で摂政となった人物は、平安時代から江戸時代までには存在しない。 明治維新以前の摂政は、詔書の代筆、叙位・任官の施行など、天皇の行う政務のほとんど全てを代行し、その権限はほとんど天皇とかわりなかった。 1868年、王政復古により摂政二条斉敬を罷免。摂政職は関白職、征夷大将軍職ともども廃止され、満15歳の明治天皇が親裁する建前となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「摂政」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Regency 」があります。 スポンサード リンク
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