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摺上原の戦い : ウィキペディア日本語版
摺上原の戦い[すりあげはらのたたかい]

摺上原の戦い(すりあげはらのたたかい)は、戦国時代1589年7月17日天正17年旧暦6月5日)に、磐梯山裾野の摺上原(福島県磐梯町猪苗代町)で行われた出羽米沢の伊達政宗軍と会津の蘆名義広軍との合戦。この合戦で伊達政宗は大勝し、南奥州の覇権を確立した。
== 合戦までの経緯 ==

天正12年(1584年)に伊達家の家督を継いだ政宗は積極的な勢力拡大策を採ったが、このために複雑な血縁関係で結ばれている奥州や北関東の諸大名、蘆名家や佐竹家を敵に回す事になった。天正13年(1585年)には畠山義継のために政宗の父・輝宗が横死〔 河合秀郎 著『日本戦史、戦国編』学習研究社、2001年、p.175〕。これにより輝宗の存在のために確立していた伊達家周辺の諸大名との外交関係は大幅に後退した〔。おまけに政宗は家督を継いで1年とさしたる実績も権力基盤もなく、孤立無援に近い状態になった〔。
輝宗の死去を好機とみた佐竹義重ら反伊達勢力は岩城常隆石川昭光二階堂家、蘆名家と連合し〔、政宗を攻めた(人取橋の戦い)〔 河合秀郎 著『日本戦史、戦国編』学習研究社、2001年、p.176〕。政宗は連合軍の圧倒的兵力の前に押されたが、佐竹軍内で義重の叔父・佐竹義政が裏切りで殺され、常陸里見家が侵攻しようとしたため、連合軍は解散して撤退した〔。
その後、政宗は天正16年(1588年)の郡山合戦でも佐竹家・蘆名家を中心とした連合軍と戦い、これも引き分けに終わっている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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