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播戸 竜二(ばんど りゅうじ、1979年8月2日 - )は、兵庫県姫路市出身のプロサッカー選手。Jリーグ・大宮アルディージャ所属。ポジションはフォワード。元日本代表。 == 来歴 == 琴丘高校〔琴丘高校時代の同期に増川隆洋がいる。〕時代はキャプテンを務め、国体選手にも選出された。3年生の最後の大会(選手権県予選)では加地亮や朴康造を擁する滝川二高の前に決勝で敗退した。同高の卒業生でもある森下洋一(当時松下電器産業社長)の後輩ということで入団テストにこぎつける。 1998年、ガンバ大阪に練習生として入団〔同期入団に橋本英郎、新井場徹。稲本潤一は学年は同じではあるが、高校在学中にトップ昇格しているため同期入団ではない。〕。2000年シーズンにコンサドーレ札幌へ期限付き移籍。岡田武史監督(当時)の下、レギュラーFWとしてJ1昇格、残留を経験する。この間、U-19/U-20日本代表でも活躍。出場試合は無かったものの黄金世代の1人として、1999 FIFAワールドユース選手権のメンバーにも選出され、2001年にはA代表候補合宿にも招集された。 2002年からは地元ヴィッセル神戸に期限付き移籍で加入し、三浦知良と共に中心選手として活躍。翌2003年は完全移籍を果たす。2004年はJ1で17得点を挙げ、名古屋のマルケスと並び、得点ランク3位になったが、2005年は故障に苦しみ、チームの成績も低迷、J2降格となる。シーズンオフに年俸の大幅ダウン提示を受けたことなどに伴い神戸を退団し、2006年は古巣のG大阪に復帰。史上40人目のJ1通算50得点を達成し、スタメン出場するたびに得点を挙げ続け、A代表初選出。10月4日のキリンチャレンジカップのガーナ戦で初出場、10月11日のアジアカップ2007予選・インド戦で初先発・初得点を記録した。 2008年は足首の故障や肝機能障害などで長期離脱したが、ACLで貴重なゴールをあげるなど、重要な役割を果たし、天皇杯決勝・柏戦では途中出場で決勝点をあげ、優勝に貢献した。 2009年、レアンドロやチョ・ジェジン、ペドロ・ジュニオールといった新外国人FWの加入などもあり、出場機会のほとんどは試合終盤での途中交代だった。結局この年はリーグ戦21試合出場2得点と昨季に続いて振るわず、シーズン終盤の同年11月4日に自身のブログでガンバ大阪を退団することを発表した〔播戸竜二 OFFICIAL BLOG: 報告。 〕。 2010年、ガンバ大阪からセレッソ大阪へ完全移籍〔FW播戸竜二選手 セレッソ大阪へ完全移籍 ガンバ大阪オフィシャルサイト〕〔ガンバ大阪 播戸竜二選手 移籍加入のお知らせ セレッソ大阪 CEREZO OSAKA OFFICIAL SITE〕〔播戸竜二 OFFICIAL BLOG: 移籍報告。 〕。移籍1年目は途中交代での出場が多かったが、18試合で5得点を挙げた。 2011年、8月20日の清水戦、9月10日の広島戦では途中出場ながらハットトリックを達成した。 2013年、セレッソではナビスコカップへ2試合出場したものの、リーグ戦への出場機会はなかった〔【13/07/26】播戸竜二選手 サガン鳥栖に期限付き移籍のお知らせ セレッソ大阪公式サイト〕。7月27日からは、2014年1月31日までの期限付きでサガン鳥栖へ移籍〔。ちなみに、移籍発表の当日夜に長居スタジアムで開催されたマンチェスター・ユナイテッドとセレッソの国際親善試合には、後半の途中から試合終了まで出場している(セレッソ大阪対マンチェスター・ユナイテッド公式記録 を参照)。〕。2001年まで在籍していた札幌以来、11シーズン振りに関西圏以外のJリーグチームへ活躍の場を移している。また、背番号は9となり、プロ入り後初めて一桁の番号を背負うことになった。 2014年、サガン鳥栖へ完全移籍。 2015年、大宮アルディージャへ完全移籍。シーズン序盤は中々出番が無かったが、第12節から7試合連続で先発。移籍後初得点を、初先発の第12節ギラヴァンツ北九州戦で記録。第24節アビスパ福岡戦では、キャリア4度目のハットトリックを記録。Jリーグ在籍日本人としては最年長記録である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「播戸竜二」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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