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政治経済学部(せいじけいざいがくぶ)は、政治学・経済学を中心として社会科学を学ぶ大学の学部である。政経学部を正式名称としている大学もある。 == 概要 == 政治経済学部を最初に発足させたのは、早稲田大学である。しかし、後述のように、早稲田大学の旧称である東京専門学校創立の1882年よりも前に、東京大学が、1881年に、文学部内に政治学及理財学科を設置している(「理財」は、おおむね「経済」の意)。以降は、通説である、政治経済学部の原点は早稲田にあるとの説に基づいての説明となる。すなわち、早稲田大学においては、同大学草創期には政治学を法学部の一部門と捉えるドイツの慣習に合わせた考え方が主流であったなか、イギリスの慣習を採用して、経済学とともに政治を学ぶ学部として「政治経済学部」を発足させた、と主張している。これは、当時のイギリスにおいて政治の理解なくして経済学の理解はあり得ない、経済の理解なくして政治の理解はあり得ないという理解がなされてきたことによる。そのため、法学部が文系学部の中心学部であることが多い日本の大学の中で、現在においても早稲田大学においては伝統的に政治経済学部が早稲田の文系学部の看板学部・中心学部となっている。 諸外国の沿革を考察すると、コース名からみれば、例えば、英国において首相を含め多くの政治家を輩出してきたこと で知られるオックスフォード大学のPhilosophy, Politics and Economics(PPE)プログラム〔http://www.ox.ac.uk/admissions/undergraduate_courses/courses/philosophy_politics_and_economics/philosophy_politic_4.html〕 のように、英国を中心として同様のカリキュラムを有する大学が多く存在する〔http://en.wikipedia.org/wiki/Philosophy,_Politics_and_Economics〕。 オックスフォード大学のPPEコースは社会哲学から政治学、経済学までの広い分野をカバーしており、学生は各分野の中からいくつかの科目を選択して受講する。卒業生には多くの政治家、著名人が含まれる〔http://en.wikipedia.org/wiki/Notable_people_with_PPE_degrees_from_Oxford〕。 早稲田大学の政治経済学部(School of Political Science and Economics)においても同様のカリキュラムが採用されているが、近年はとりわけ経済学科において必修科目が増加している。 伝統的にイギリスでは政治学と経済学を融合的に理解することが行われてきた。現在ではpolitical economyとeconomicsは別の概念であるが、政治学と経済学を一体的に学問研究する意義は増しつつある。 以下では、政治経済学部という学部が日本で生まれた大まかな沿革が述べられている。 イギリスにおいて日本の政治経済学部に該当するものとして、ロンドン大学のLSEが挙げられる(ただしLSEはロンドン大学連盟に所属しているものの、学位はLSE独自のものを授与する独立した大学であり学部名ではない)。同校の正式名称は、London School of Economics & Political Scienceとなっており、日本における政治経済学部と近い学問構成となっている。一方、日本国内では、東京大学の文学部内に、政治学及理財学科が、1881年9月に設置されている。早稲田大学の旧称である東京専門学校は、その翌年の創立であるから、東京専門学校の学科の構成をするに当たって、この東京大学の学科構成を真似たものとも思われる。東京大学の関係者がまず政治経済学という学問を日本に輸入したと思われる。そもそも東京専門学校の創立には東京大学の関係者が深く関わっていることからすると、どちらにせよ東京大学の関係者が政治経済学という学問の輸入に関与した、というのが真相なのではないかとも思われる。例えば、大隈重信とともに東京専門学校の創立に参加した高田早苗は、1882年に東京大学文学部哲学政治学及理財学科を卒業している。そうすると、まず、東京大学の学科編成担当者が政治学と経済学を同一学科において扱うこととし、その理解にもとづいた学科構成ないし学問分野を、高田早苗らの東京大学関係者がそのまま東京専門学校に応用したということも考えられうる。その後、東京大学では、1885年に政治学及理財学科を法政学部に編入した(法政学部編入後の学科の存続ないし廃止、改組については不明)のに対して、東京専門学校は政治経済学科を残し、後に学部にまでした。この、東京専門学校ないし早稲田大学が、東京大学にならって政治経済学科ないし政治経済学部を解消、改組することはしなかったことの理由は、早稲田の関係者において、政治学と経済学を一緒に学ぶことに意義があると肯定的に考えられたことにあるのではないかと思われる。また、伝統的に法学を中心とする東京大学の影響を極力排除したかったと考えることも出来る。そして、一般には、東京大学が初期に政治学及理財学科を置いていたという事実が早稲田大学関係者によっては主張されていないことも、早稲田が東大の影響を排除したいという意志の表れとみれば説明がつく。以上のことから、早稲田が自ら政治と経済を融合的に学ぶことに積極的な意義を見出したという理解が妥当であることとなる。現在もなお日本の大学の文系学部において法学部が中心学部であることが多いのに対して、早稲田大学においては政治経済学部が看板学部・中心学部であるのもその根拠を補強するものといえる。 そこで、誰が日本において政治経済学という学問、ないし、政治経済学科、政治経済学部という学科学部を作り出したのかは一応疑問があるといえるが、少なくとも以下のことは言えよう。すなわち、日本で政治経済学科ないし政治経済学部という特殊な学科、学部が設置された背景としては、次の事実が考えられる。当時日本においては近代化の過程で様々な外来語が翻訳されており、学問名も例外ではなかった。その後、学習院大学と明治大学が早稲田大学に倣って政治経済学部を設けたが、学習院大学ではそのわずか11年後の1964年 政経学部を法学部(法学科、政治学科)と経済学部(経済学科)に改組している。 第二次世界大戦後において早稲田大学と明治大学の政治経済学部は異なる特色を持つようになる。早稲田大学政治経済学部では行政学と近代経済学を主とし、明治大学政治経済学部は社会学とドイツ歴史学派経済学を主とした学問体系を築いた。現在では、複雑な世界規模の経済現象と政治は密接に関わっているとの理解から、政治学と経済学を融合的に学ぶ意義がさらに理解され、政治経済学と呼ぶべき新たな学問体系を創造するに至っている。 現在では、どの大学でも政治学と経済学の両方を学べる学部という位置づけになっており、経営学まで網羅している大学もある。 == 早明間の政治経済学論争 == 早明両大学は古くから政治経済学部を持っていたこともあり、学問的対立が存在した。特に経済学の分野では学問体系が対立関係にあることからこの二学部に所属する学者の間で経済学論争が起き、旧来から継承されていた近代経済学と歴史学派経済学の根本的、具体的議論が繰り広げられた。 両大学ともに、学生運動の時期はマルクス経済学が主導権を握っていたこともあったが、冷戦構造の終焉を経て近代経済学の確立が目指されることになった。 具体的な論争内容は、60年代以降の学生を中心とした「政治経済学研究会」や教授陣の論文雑誌である「政経論叢」において中心の論点となった事項が数点挙げられる。 * 経済学は、状況に適応した施策を求めるものであるのか(早稲田)、理論追求のものであるべきか(明治)という点。これはまさに景気動向に配慮した形で適応的に政策を実行すべきか、貧富の格差の是正など社会的不安の払拭という思想的理念を政策に移すのかという、対立が存在した。 * 政治経済学に関する議論。早稲田では政治学と経済学の範疇をより専門化、実証化させるべきであるとの合理主義的立場を重視し、明治では社会学や人類学を背景とした、より広範な視点を摂取しながら、政治学と経済学の確立をすべきであるとの理念的立場を重視した。この近代の代表的な構図は、アメリカのコロンビア大学(専門化重視)とシカゴ学派(広範性重視)の違いを反映している。しかし、シカゴ学派には早稲田の藤原保信の政治学がその系統を担っていたし、アメリカの新古典派経済学の実証主義経済政策論を明治で教授した赤松要の流れをくむ赤松学派が存在していたため、政治経済学の対立は、部分的であったという評価もある。明治大学の後藤昭八郎や毛馬内勇士はその後継者であり、日本経済政策学会の理事をつとめており、その中心的存在である。 * マーシャル経済学の日本流入以後、経済学の方法論を合理的認識のもとに置くか、理念的認識のもとに置くかという議論。早稲田は戦後、アメリカで進展を見る新古典派経済学を吸収し教育に活かしたのに対し、明治はドイツ系経済学、わけてもマックス・ヴェーバーの歴史学派経済学やシュモラーの歴史学派経済学を重視している。これも、もう一つの対立構図である。特に早稲田の実証的経済学の導入は効果的であった。明治は歴史学的・解釈学的方法論を主とした研究を追究するべきとの考えから、早稲田とは別の独自路線を歩んでいくことになる。 現在では明治大学政治経済学部でも近代経済学が主であり、マルクス経済学系の教員は一名である。これは早稲田大学政治経済学も同様である。カリキュラムを見ても「社会主義経済学」、「ロシア東欧政治論」が必修ではない「応用科目」として存在している程度である。(注:)また明治大学では地域行政学科が設置され、行政学にも力を入れるようになっている。 1990年代以降、国際弁護士でエコノミストの湯浅卓等をオブザーバーとして多くのシンポジウムやディスカッションを両大学のゼミ連携で行っており、大学間の論争は影を潜めている。今日的には環境学・平和学の展開を背景にレギュラシオン学派を引く経済理論の考究の様相も呈している。政治学においては、早稲田大学名誉教授の内田満や明治大学名誉教授の岡野加穂留との共著出版や大学間兼担講師を相互に引きうけるなど、むしろ協調的交流さえうかがえる。対立構図はなくなった。 なお現在では、近代経済学においては早稲田と明治ともにほぼ同数の教員が揃っている。それらの教員は、早稲田大学では大和瀬達二、明治大学では池田一新の後継者である。大和瀬は寡占理論の権威であり、また池田はシュタッケルベルクの愛弟子にあたる。大和瀬はE・シュナイダー、池田はシュタッケルベルクの翻訳を日本でいちはやく行なったことで知られている。大和瀬はその著『寡占価格の理論』で早稲田大学経済学博士、池田はその論文「不完全競争理論の体系化のための試論」で明治大学経済学博士となっている。さらに、現在では早明ともにそれぞれマルクス経済学の教員を一名しか置いておらず、早稲田では藤森頼明、明治では飯田和人が講義・研究にあたっている。これらの実態を踏まえると、早明政経論争はもはや過去のものとなっており、現在ではそのような論争を知らない世代の若手教員も多くなってきている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「政治経済学部」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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