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敦賀港(つるがこう)は、福井県敦賀市の敦賀湾に所在する港湾。港湾管理者は福井県。港湾法上の重要港湾、港則法上の特定港に指定されている。 近年、敦賀港国際ターミナルの完成や国際RORO船の就航などにより国際コンテナの取扱いを急速に伸ばしている〔敦賀港の国際コンテナ量過去最高 11年、4年連続増 2012年1月16日 福井新聞〕。2011年国土交通省により「日本海側拠点港」のひとつに選定された。軍事・防衛関係は京都府の舞鶴港、民間の物流・人流関係は敦賀港として住み分けつつ、それぞれ独自に今日まで発展してきた。 == 概要 == 三方を山に囲まれた天然の良港であり、古代から栄え渤海使の為に松原客館が置かれていた。鎌倉時代にはやや衰退したと考えられるが、戦国時代には朝倉氏の保護を受けて再興された。さらに朝倉氏を破った織田信長やその事実上の後継者である豊臣秀吉らによって日本全国が平定された安土桃山時代には、全国的に海運が盛んになったことから発展し、ここを拠点とする豪商も生まれた。江戸時代初期には北陸地方などからの米等を運んできた船が多く入港したが、中期には西廻り航路の開発により一時的に停滞する。しかし、米に代わって、関西地方や琉球王国向けの北海道のニシンや昆布等が主要な物産として活気をもたらした。幕末の1858年には大野藩所有の西洋式帆船「大野丸」が母港とし、1882年の鉄道開通は港に更なる繁栄をもたらし、1892年には北前船の船主であった大和田荘七(おおわだ しょうしち、1857年 - 1947年)によって大和田銀行が創立された。 しかし、鉄道建設が延伸されると港は大打撃を受け、海外貿易に活路を見出すことになる。1899年に開港場に指定され1902年にはロシア帝国のウラジオストクとの間に定期船が開かれた。同年の輸出額は51,000円で、前年の1645倍(前年は31円)に急増した〔海道(2000):121ページ〕。1907年に第一種重要港湾に指定され敦賀郵便局が外国郵便交換局に指定されたことから日本からの国際郵便の大半が敦賀港を経由することになった。1912年にはウラジオストク航路に接続する国際列車が新橋駅(1914年からは東京駅)と金ヶ崎駅(1919年に敦賀港駅と改称)との間に走りだした(→ボート・トレイン・連絡運輸の項目も参照)。1916年の統計では、貿易総額は5600万円で、日本国内第5位であった〔海道(2000):123ページ〕。そのうちの約96%に相当する5400万円はロシアとの貿易によるものである〔。1918年にはロシアの作曲家プロコフィエフが米への亡命途上、敦賀港より日本に上陸した。同年、清津(朝鮮)との間に定航路が開設されている〔。 1940年から1941年までの間、リトアニア領事代理杉原千畝の発給した「命のビザ」によって、約6千人のユダヤ人難民がシベリア鉄道からウラジオストク経由で敦賀へ上陸した。敦賀港は以前以後の幾度も難民を受け入れてきたことから「人道の港」と呼ばれた。2013年12月にはかつて桟橋だった地点に「1920年ポーランド孤児 1940年ユダヤ難民 上陸地点」と記した銘板が埋め込まれた〔。 第二次世界大戦後は暫く石炭の中継港の役割を担うにとどまっていたが、1951年に港湾法による重要港湾に指定され、1957年にはソ連との貿易も復活した。1970年に北海道航路が開設されて大型フェリー「すずらん丸」が就航し、1973年に川崎松栄岸壁(現コンテナバース)が完成した。1999年7月に開港100周年を迎え、記念事業として「つるが・きらめきみなと博21」が開催され、あわせて金ヶ崎緑地などウォーターフロントが整備されて現在に至っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「敦賀港」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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