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敷島 勝盛(しきしま かつもり、1970年12月15日 - )は、千葉県船橋市出身で陸奥部屋(入門時は立田川部屋)所属の元大相撲力士。本名は吉種 弘道(よしたね ひろみち)。現役時代の体格は身長184cm、体重187kg。血液型はAB型。最高位は西前頭筆頭(1998年3月場所)。得意手は左四つ、寄り。現在は年寄・浦風。 == 人物 == 千葉県立船橋古和釜高等学校時代は柔道部に所属していた。知人の紹介で立田川部屋に入門し、高校卒業直前の1989年1月場所に本名「吉種」で初土俵を踏んだ。 1場所後に入門した弟弟子の豊桜と共に立田川部屋の新鋭として周囲から期待され、幕下上位でやや足踏みをしたものの、入門から約4年後の1993年5月場所に新十両に昇進した。新十両を期に四股名を「敷島」と改名したが、1場所で幕下に陥落した。2場所で十両に復帰し、1994年3月場所に12勝3敗で十両優勝を飾り、同年11月場所には新入幕を果たした。一時は幕内と十両を往復していたが1996年5月に再入幕を果たし、それ以降は幕内に定着する。 自己最高位の西前頭筆頭まで上げた1998年3月場所は、3勝12敗と大きく負け越しはしたものの4日目に横綱・貴乃花を寄り切りで破り初金星を挙げ、翌5月場所10日目にも貴乃花を小手投げで破り、2場所連続して金星を挙げたが、差し手の方でカチ上げる二度手間の立合いが祟って結局三役には届かなかった。〔2012年1月場所中の『どすこいFM』で武蔵丸(当時は年寄・振分)が証言した。〕 2000年7月場所を最後に十両に陥落。同年11月場所前には立田川親方が停年(定年)退職で部屋を閉じるため、同じ時津風一門の陸奥部屋に移籍した。再入幕を狙える番付で迎えた2001年1月場所は、初日に燁司に敗れ、2日目から心機能障害のため休場した。病状は重く突然死の危険性があり、幕下まで番付が落ちた翌3月場所も全休せざるを得なくなった。翌5月場所には日常生活では問題なく生活できるほどまでに病状が回復したものの、相撲が取れない状況には変わりなく、場所中に現役を引退した。 引退後は準年寄・敷島を襲名し、2002年1月に年寄・立田川を暫定的に取得して襲名した〔この時期には年寄名跡の貸し借りは原則禁止されていたため、年寄名跡・立田川を所有していた湊富士から譲渡され襲名したと雑誌『相撲』などで報道されていた。〕。年寄名跡の貸し借り解禁以降は順に富士ヶ根・錦島・小野川・谷川・安治川を借株で襲名し、2013年1月に年寄名跡・浦風を正式に取得して襲名した。現在に至るまで陸奥部屋の部屋付き親方として後進の指導に当たっている。 相撲協会の業務では九州場所担当を長く務めたが、2013年の職務分掌で退任しており、2014年5月場所からは主任の地位ながら土俵下の勝負審判を務めることになっている〔主任が審判部を務める例はこれまでに東関、立川を含めて3例のみである。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「敷島勝盛」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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