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文久遣欧使節(第1回遣欧使節、開市開港延期交渉使節)は、江戸幕府がオランダ、フランス、イギリス、プロイセン、ポルトガルとの修好通商条約(1858年)で交わされた両港(新潟、兵庫)および両都(江戸、大坂)の開港開市延期交渉と、ロシアとの樺太国境画定交渉のため、文久元年(1862年)にヨーロッパに派遣した最初の使節団である。正使は、竹内保徳(下野守)、副使は松平康直(石見守、後の松平康英)、目付は京極高朗(能登守)であった。この他、柴田剛中(組頭)、福地源一郎、福沢諭吉、松木弘安(後の寺島宗則)らが一行に加わり、総勢36名となり、さらに後日通訳(蘭語、英語)の森山栄之助と渕辺徳蔵が加わり38名となった。 == 旅程 == 万延元年遣米使節を見たオールコック駐日英国公使やベルクール駐日仏国公使の幕府および本国政府に対する画策が奏功し実現した。オールコックは当初開港延期交渉に関しては反対の立場をとっていたが、幕府の内情を知るにつれて、これを支援するようになった。また、自身の休暇帰国を一行の日程と合せ、交渉のサポートを行うこととした。 文久元年12月22日、(1862年1月21日)、一行は英国海軍の蒸気フリゲート、オーディン号(HMS ''Odin'')で欧州に向かって品川港を出発した。長崎、英領香港、英領シンガポール、英領セイロン、英領イエメンを経てエジプト・スエズに上陸、鉄道でカイロからアレクサンドリアに出て、船で地中海を渡り英領マルタを経て、マルセイユに入った(4月3日)。 パリに到着(4月7日)、フランスと交渉したが、開港延期の同意は得られなかった。その後、カレーから英仏海峡を横断、文久2年4月2日(1862年4月30日)、イギリス・ロンドンに到着した。ここで、日本の内情を知るオールコックが休暇帰国するのを待ち、オールコックの協力を得て、同年5月9日(6月6日)、日本国内の事情に鑑み(すなわち攘夷熱の高まり)、兵庫、新潟、江戸、大坂の開港・開市を5年延期し、1868年1月1日とするロンドン覚書が調印された。 その後、オランダ(6月13日 - )、プロイセン・ベルリン(7月18日 - )と他国とも同様の覚書を締結した。 その後、ロシア・サンクトペテルブルクに入る(8月8日 - )。しかし、樺太国境画定に関するロシアとの交渉は合意に至らなかった。 復路ではカウナス、プロイセン王国、フランス帝国(パリ覚書締結)を経てポルトガルを訪れた(10月9日 - )。帰路は英領ジブラルタルを経由、往路とほぼ同じ行路をたどり、文久2年12月11日(1863年1月30日)、約1年間の旅を終え一行は帰国した。 ロンドンには、ロンドン万国博覧会に合わせて滞在した。ロンドン万博の日本コーナーには、オールコックが収集した品が展示されていた。なお、5年後のパリ万国博覧会には幕府と薩摩藩がそれぞれ参加することになる。一行はロンドン逗留中、産業革命を経験したイギリスの鉄道や国会議事堂、バッキンガム宮殿、大英博物館などを訪れている。 欧州滞在中の一行の姿は、ナダールによって写真に収められている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「文久遣欧使節」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 First Japanese Embassy to Europe (1862) 」があります。 スポンサード リンク
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