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文室秋津[ふんや の あきつ] 文室 秋津(ふんや の あきつ、延暦6年(787年) - 承和10年3月2日(843年4月5日)〔『続日本後紀』承和10年3月2日条〕〔『公卿補任』では承和13年3月27日(846年4月30日)とする。〕)は平安時代前期の公卿。大納言・文室浄三の孫。備前守・三諸大原の四男。官位は正四位下・参議。 == 経歴 == 右衛門大尉・近衛将監・蔵人を経て、弘仁7年(816年)従五位下に叙せられる。のち左近衛将監・右馬助を経て、弘仁8年(817年)に藤原真川の後任として甲斐守となり、翌弘仁9年には武蔵介に転任する。甲斐守から武蔵介への転任は、弘仁・天長期に行われていた御牧整備との関連が指摘されている。弘仁13年(822年)10月木工頭となるが、同年12月甲斐守に再任されるなど、嵯峨朝の後半は主に地方官を務めた。 淳和朝に入り、天長元年(824年)に従五位上・右兵衛権佐に叙任されると、天長2年(825年)正五位下・左近衛中将、天長3年(826年)従四位下、天長4年(827年)蔵人頭と京官を務めて急速に昇進し、天長7年(830年)参議に任ぜられ公卿に列した。のち議政官として左右中将・左右大弁と文武の要職を兼任する。またこの間、天長8年(831年)従四位上に昇進し、天長9年(832年)には武蔵守に再任している。 天長10年(833年)仁明天皇の即位に伴い、淳和天皇の皇子・恒貞親王が皇太子に冊立されると、春宮大夫を兼ねる。承和元年(834年)左大弁・左中将の兼官の返上を上表し左大弁の辞任を許される。さらに翌承和2年(835年)には左中将から右中将次いで右衛門督・検非違使別当に転任となる。承和8年(841年)正四位下に昇進するが、翌承和9年(842年)に発生した承和の変で恒貞親王が皇太子を廃されると、春宮大夫であった秋津も連座して出雲員外守に左遷される。承和10年(843年)3月2日配所で卒去。享年57。最終官位は出雲権守正四位下。 大和国の豪族、秋津氏は彼の末裔と称する。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「文室秋津」の詳細全文を読む
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