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文屋善友[ふんや の よしとも] 文屋 善友(ふんや の よしとも、生没年不詳)は、平安時代の官人。能登守・文室能雄の子とする系図がある〔鈴木真年『諸系譜』第七冊,池田(宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年 による)〕。官職は上総大掾、対馬守。 ==略歴== 元慶7年(883年)に上総国で起きた俘囚の乱を上総大掾として諸郡の兵1000を率いて鎮圧した経験を有していた。この頃は、たびたび新羅海賊が対馬・九州北部沿岸を襲う事件が起こり、貞観15年(873年)には小野春風が対馬守に赴任、政府に食料袋1000枚・保呂(矢避けのマント)1000領を申請している。寛平5年(893年)にも新羅の賊が九州北部の人家を焼くという事件があり、翌寛平6年(894年)4月には新羅海賊が船45艘をもって対馬を襲った。 戦闘の経過は以下の通りである。 対馬守であった善友はまず前司の田村高良に部隊を整えさせ、対馬嶋分寺の上座面均と上県郡の副大領下今主を押領使とし100人の兵士を各5名ずつ20番に分けて、まず豊円春竹が率いる40人の弱軍をもって敵を善友の前までおびき寄せ、弩による射撃戦を挑んだ。矢が雨の如しという戦いの中、逃走しようとする敵をさらに追撃し大将3人、副将11人を含む賊302人を射殺した。また船11隻、甲冑、保呂、銀作太刀および太刀50柄、桙1000基、弓110張、弓胡(やなぐい)110、置き楯312枚など莫大な兵器を捕獲し賊ひとりを生け捕った。彼が述べるに「飢饉により王城不安であり食料や絹を獲るため王の命を受けた船100隻、2500の兵を各地に派遣した」と、対馬を襲ったこの45艘もその一部隊であった。また逃げ帰った中には優れた将軍が3人おり、その中でも一人の唐人が強大であると述べた。 当時は律令軍制の最末期であり、またその装備である弩が蝦夷以外の対外勢力との戦いで使われた数少ない例である。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「文屋善友」の詳細全文を読む
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