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齊藤 了英(さいとう りょうえい、1916年(大正5年)4月17日 - 1996年(平成8年)3月30日)は、日本の実業家。大昭和製紙(現・日本製紙)名誉会長。「東海の暴れん坊」の異名をとった〔佐藤朝泰 著 『豪閥 地方豪族のネットワーク』 (立風書房 2001年) 181頁〕。大昭和製紙創立者斉藤知一郎の長男。 == 経歴 == 齊藤知一郎の長男として静岡県に生まれた。 静岡県立沼津中学校を経て、1938年(昭和13年)早大専門部商科(専門部は、大学令における大学ではなく、専門学校令下の専門学校、1941年(昭和16年)日大専門部法科各卒業〔『第廿一版 人事興信録 上』1961年(昭和36年)、さ七九〕。父・知一郎が創業した大昭和製紙(現・日本製紙)に入社。取締役・専務・副社長を歴任。1961年(昭和36年)父の死後、2代目社長に就任〔佐藤朝泰 著 『豪閥 地方豪族のネットワーク』 (立風書房 2001年) 183頁〕。 1980年(昭和55年)から1981年(昭和56年)にかけて大昭和は過剰投資、過剰在庫、過剰借り入れにより経営危機に陥った〔。1982年(昭和57年)了英は相談役に退き、弟の滋与史が3代目社長になった〔佐藤朝泰 著 『豪閥 地方豪族のネットワーク』 (立風書房 2001年) 186頁〕。 1989年(平成元年)に長男・公紀を社長に就任させた〔佐藤朝泰 著 『豪閥 地方豪族のネットワーク』 (立風書房 2001年) 188頁〕。 1993年(平成5年)11月、ゴルフ場建設をめぐる元宮城県知事本間俊太郎への一億円贈賄容疑で逮捕された〔。 1995年(平成7年)10月東京地方裁判所から執行猶予付きの有罪判決を受けた。 1996年(平成8年)3月30日、脳梗塞のため79歳で死亡。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「齊藤了英」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Ryoei Saito 」があります。 スポンサード リンク
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