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斎藤 信利、(さいとう のぶとし、天文23年(1554年)慶長10年8月4日(1610年9月20日))は、戦国時代の武将。通称・次郎右衛門尉。越中国城生城(蛇尾城)主。斎藤伯耆守利基の子。母は神保氏の娘。 妻は三木良頼の娘。子は利次、利治、利政、正利、利信、娘(戸田由利妻)。弟に五郎次郎信言、久右衛門信吉。 == 生涯 == 越中斎藤氏は婦負郡楡原保(富山市楡原〔〒939-2184富山市楡原(楡原駅)、楡原一区、楡原三区、楡原高田(にれはらたかた)〕)一帯に勢威を張った国人領主で、藤原北家利仁流を称している。桃井直常討伐に功があった祖・斎藤左衛門大夫入道常喜が文和年間に将軍足利尊氏より領地を賜ったことに始まるとされる。神保氏とは長らく敵対関係にあったが、天文年間に神保長職に攻められ服属した。 天正元年(1573年)に父が没して跡を継いだ信利は、当初上杉氏に臣従していたが、上杉謙信の急死後、いち早く織田信長に誼を通じた。織田軍は飛越を結ぶ交通の要地城生城を拠点として斎藤利治、佐々長穐、神保長住らを送り込み、月岡野の戦いで上杉軍に大勝した。信利も手柄をあげ、信利の弟斎藤信吉も今泉城を攻略している。信長は斎藤兄弟の働きを評価し、朱印状を下した。諱の「信」は信長からの偏諱という。ところが本能寺の変が勃発すると、斎藤一族は上杉方へ寝返った。実は前年の秋以来上杉氏に通じていたらしい。その後も上杉景勝と結んで佐々成政に抵抗したが、神保氏張によって居城を奪われ、義兄姉小路頼綱を頼って落ち延びた。 その後頼綱の仲介によるか、旧敵佐々成政に仕えて能越国境の要衝湯山城を守ったが、成政没落後徳川家康に召し出され、下総国、近江国で1500石を給された。慶長15年(1610年)8月4日、山城国伏見にて没す。享年57。子孫は旗本として続いている。赤穂事件において、赤穂城引渡目付として遣わされた書院番・斎藤左源太は末裔の一人である。 * 神保家 家臣団 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「斎藤信利」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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