|
斎藤 博之(さいとう ひろゆき、1919年5月25日 - 1987年)は、日本の洋画家、絵本作家。 独立美術協会展に出品して入選。『しらぬい』で第2回講談社出版文化賞絵本賞、『がわっぱ』他で、第21回小学館絵画賞(現在の小学館児童出版文化賞)を受賞。 ==経歴== *1919年5月25日、北京政府奉天省の奉天市(現在の瀋陽市)に生まれる〔「孤高の画家 斎藤博之——洋画と日本画と。」小杉放菴記念日光美術館 学芸係長 田中正史 小杉放菴記念日光美術館サイト内〕。 *1937年、奉天第一中学校を卒業後、南満洲鉄道や、満蒙百貨店に勤務〔。 *1939年、上京。帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)西洋画科に入学する〔。 *1941年、帝国美術学校在学中、『国引き』を独立美術協会展に出品して入選〔。 *1943年9月、戦争のため、帝国美術学校の卒業が繰り上げとなる〔。 *1944年3月、結婚。同年6月に応召して、ソ連国境に近くの満洲国黒河省神武屯の守備にあたる〔。同年8月、第14方面軍を基幹とする比島方面軍に転属。ルソン島の南部の小島に配属された所属部隊は米軍の攻撃を避け、深い山の中を散り散りになって逃げ惑った〔。 *1945年8月15日の敗戦も知らないままに敗残兵として山に潜伏し続け、年末に下山したところで、捕囚となって収容所生活を送る〔。 *1946年4月に復員後、東宝撮影所の動画部門に勤め、そこで画家の森芳雄と知り合った〔〔当時、東宝教育映画部ではアニメーション映画「ムクの木の話」(1947年完成・公開)が準備されていた。〕 *1947年、帝国美術学校の再編により発足した造型美術学園(学園長=山脇巌)の助手となり、石膏デッサンの指導などを担当〔。 *1948年春、同学園が武蔵野美術学校(学園長=名取堯)に再編される〔沿革 武蔵野美術大学サイト内〕なかで、助手を辞職〔。以後、児童文学作品の挿絵などを手がけるようになる。 *1952年、初めての個展を開催〔。 *1971年、『しらぬい』で第2回講談社出版文化賞絵本賞。 *1973年、『がわっぱ』他で、第21回小学館絵画賞(現在の小学館児童出版文化賞)を受賞。 *1987年、死没。 *1993年、『斎藤博之作品集』(笛田舎)刊行。 *2002年6月28日〜8月4日、富山県水墨美術館で『馬とカッパと絵本の世界 斎藤博之』展が開催。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「斎藤博之」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|