|
『斜陽』(しゃよう)は、太宰治の長編小説。 『新潮』1947年7月号から10月号まで4回にわたって連載された。同年12月15日、新潮社より刊行された。定価は70円だった〔 『太宰治全集 9』ちくま文庫、1989年5月30日、537-539頁。解題(関井光男)より。〕。初版発行部数は1万部。すぐさま2版5,000部、3版5,000部、4版1万部と版を重ねベストセラーとなった〔長部日出雄 『桜桃とキリスト もう一つの太宰治伝』文藝春秋、2002年3月30日、335頁〕。 没落していく人々を描いた太宰治の代表作で、没落していく上流階級の人々を指す「斜陽族」という意味の言葉を生みだした。斜陽という言葉にも、国語辞典に「没落」という意味が加えられるほどの影響力があった。太宰治の生家である記念館は、本書の名をとって「斜陽館」と名付けられた。 == 執筆の時期・背景 == 1946年(昭和21年)11月14日、太宰は疎開先の津軽からようやく東京に戻る。翌日の11月15日、新潮社出版部の野原一夫が長編小説執筆依頼のため、太宰の家を訪問。11月20日、太宰は新潮社を訪れ、河盛好蔵、野原一夫、『新潮』編集長の斎藤十一らと神楽坂の店で酒盃を傾ける。野原の弁によれば太宰はその席で「『桜の園』の日本版を書きたい、自分の実家の津島家をモデルにして没落する旧家の悲劇を書きたい、題名は『斜陽』だ」と述べ、本作品の『新潮』への連載と、新潮社からの刊行を確約したという〔野原一夫「『斜陽』依頼」 『著者と編集者』1970年6月1日所収。〕。 1947年(昭和22年)1月6日、かず子のモデルとなった太田静子が三鷹の太宰の仕事部屋を訪問。太宰は静子に日記を見たいと伝える。2月21日、一人暮らししていた静子を神奈川県下曽我村(現小田原市)の雄山荘に訪ねる〔山内祥史 『太宰治の年譜』大修館書店、2012年12月20日、307-308頁。〕。この訪問は静子の日記を借り受けることが主目的だったと言われている。2月26日、雄山荘を発ち、静岡県内浦村(現沼津市)の安田屋旅館に止宿。執筆を開始する。 雑誌掲載4回分のうち2回までを4月頃までに脱稿。5月24日、静子は実弟を連れて三鷹を訪問し、太宰の子を受胎したことを告げる〔山内祥史 『太宰治の年譜』前掲書、312頁。〕。6月末、本作品を脱稿。 執筆中に静子が太宰の子を妊娠(生まれた女児が作家・太田治子である)したこともあり、終盤の展開がいささかチェーホフの『桜の園』から外れ、太宰・静子が実際辿った経緯が反映された感もある。また、主要登場人物四人の設定はいずれも年代別の太宰自身の投影(初期=直治、中期=かず子と母、末期=上原)が色濃い。 作中の貴族の娘の言葉遣いが「実際の貴族の女性の言葉遣いからかけ離れている」と、志賀直哉や三島由紀夫などが指摘している。 本書は、太宰が当時交際していた太田静子の日記を参考にし、箇所によってはほとんどそのまま書き写されたものであることが、娘・太田治子によって明かされた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「斜陽」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|