翻訳と辞書
Words near each other
・ 斯業
・ 斯様
・ 斯波
・ 斯波まや
・ 斯波兼頼
・ 斯波四郎
・ 斯波園女
・ 斯波大将
・ 斯波大蔵
・ 斯波孝四郎
斯波宗家
・ 斯波宗氏
・ 斯波家兼
・ 斯波家氏
・ 斯波家長
・ 斯波寛元
・ 斯波恒正
・ 斯波持有
・ 斯波持種
・ 斯波政綿


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

斯波宗家 : ウィキペディア日本語版
斯波宗家[むねいえ]

斯波 宗家(しば むねいえ、生没年不明)は、鎌倉時代中期の武将斯波氏(尾張足利氏)2代当主。
斯波家氏嫡男〔で、生母は阿蘇為時の娘〔『尊卑分脉』第3篇 P.258。尚、宗家の傍注には「母平為時女」に加え「爲時時賴之弟」と記されており、この為時が『尊卑分脉』第4篇 P.18にも掲載のある、北条時頼の弟であることは明らかである。〕。妻は苅田時継の娘〔『尊卑分脉』第3篇 P.258 息子・家貞の傍注に「母式部大夫平時継女」とある。〕で、子に斯波宗氏(家貞)など〔。兄弟に義利貞数がいる〔。
通称は尾張守、尾張三郎〔。他に孫三郎〔『続群書類従』所収「山野辺氏系図」。『群書系図部集』二にも掲載。〕、又太郎〔『続群書類従』所収「最上系図」。『群書系図部集』二にも掲載。〕を称したと伝える史料もある。官位は従五位下〔・左近将監〔(厳密に言えば、近衛府の将監は従六位上相当の官位で、正月の叙位で叙爵枠があり、毎年1名ずつ従五位下に叙され(巡爵)、五位でこの官職に就くと、左近大夫将監と呼ばれた)。
== 生涯 ==
文永5年(1268年)頃には既に幕臣としての活動期に入っていたとされ〔小川、1980年。田中、2013年、P.167(吉井論文)。〕、実名の「宗」字も当時の執権北条時宗から偏諱を受けたものとされる〔田中、2013年、P.167(吉井論文)。〕。父の家氏が文永3年(1266年)~同6年(1269年)の間に亡くなったとする説〔を合わせ考えれば、時宗が得宗家当主となったばかりの1260年代前半期に元服を行ったと推測できよう。従って、元服が10代で行われることが多かったことから、1250年代の生まれであったとみられる。
ちょうど活動期に当たる頃、文永3年(1266年)に『吾妻鏡』の記述が途切れてしまうため、宗家の詳細な動向を知ることはできないが、父・家氏と同じく足利本家とは別に独立した御家人として幕府に列した、有力な御家人であったようである。そのために史料上では足利宗家の名で現れ、他の足利庶家とは一線を画した家格を有していた事が伺える。一方で斯波姓を称したのは、この宗家からとの伝えも「応仁後記」などに見られる。
時宗の死の翌年、弘安8年(1285年)の霜月騒動では、足利上総三郎〔吉良上総介満氏の子・貞氏に比定される(田中、2013年、P.169、吉井論文)。〕が「城陸奥入道覚真」こと安達泰盛方に属して滅ぼされている〔田中、2013年、P.125(小谷論文)・P.169(吉井論文)。典拠は『鎌倉年代記』裏書 弘安8年11月17日条。〕が、宗家もまた打撃を受けた一人らしい。具体的には『続群書類従』所収「最上系図」の宗家の項に「奥州時被討」と記されており〔、これについては、「奥州」すなわち陸奥入道安達泰盛とともに宗家も討たれた、と解釈されている〔小川、1980年。田中、2013年、P.125(小谷論文)・P.168(吉井論文)。 〕。但し、その後嘉元3年(1305年)の嘉元の乱に際し、連署北条時村を殺害した武士達を処刑まで身柄を預かった者として、北条氏一門や本家筋の「足利讃岐入道」こと足利貞氏とともに、白井小次郎胤資〔白井氏は千葉氏の一族。但し胤資(たねすけ)の系図上での位置は不明である。戦国時代白井賢胤もこの家柄の出身である。〕を預かる「尾張左近大夫将監」もその名を連ねており〔『鎌倉年代記』裏書および『北条九代記』嘉元3年5月2日条。〕、これは宗家のことであると考えられる〔ため、どうやら霜月騒動で亡くなったというわけではないようである〔田中、2013年、P.169(吉井論文)。〕。従って、霜月騒動の際には家氏期の所領の多くを失う〔に留まり、少なくとも嘉元年間(14世紀初め)頃までは幕府内の有力御家人として活動することができていたと見られる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「斯波宗家」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.