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斯波 家長(しば いえなが)は南北朝時代の武将。斯波高経の長男。 父と共に一門として足利尊氏に仕えた。中先代の乱の後、尊氏が建武の新政に反抗し争乱が勃発すると北朝の北畠顕家に対抗するため、建武2年(1335年)奥州管領任ぜられた〔『大日本史料』第6編2冊587頁。「南方紀伝」「奥相秘鑑」〕。この時斯波館(岩手県紫波郡)に下向したという。尊氏が箱根・竹ノ下の戦いで征東軍を破り上洛する際、鎌倉に残した嫡男義詮の執事に任ぜられた。顕家が南下を開始すると後を追ったものの食い止めるのに失敗し〔『大日本史料』第6編2冊825頁。〕、京都において尊氏が敗走する原因を作ってしまった。延元元年/建武3年(1336年)蜂起した北条氏残党を討伐した〔『大日本史料』第6編2冊825頁。〕。豊島河原合戦で尊氏を破った北畠顕家が奥州へ帰還するため東海道を行軍すると妨害したが、破られた〔『大日本史料』第6編3冊310頁。「相馬岡田文書」〕。延元元年/建武3年から翌年にかけて、奥州行方郡、鎌倉正続院領信濃村、駿河安部郷、常陸中郡荘、下総相馬郡、相模光明寺領、鎌倉円覚寺、甲斐大善寺などに関する文書を発給している。 延元2年/建武4年(1337年)尊氏は九州を制し再び上洛、北朝を立てた尊氏を討伐するため、再び大軍を率いて南下してきた顕家を鎌倉で迎え撃つが、敗北し戦死した(杉本城の戦い)〔『大日本史料』第6編4冊453頁。〕。17歳だったという。 なお、後任の奥州総大将と関東執事には石塔義房、上杉憲顕が派遣された。奥州総大将と関東執事は後に奥州管領、関東管領にそれぞれ発展する。 高水寺斯波氏は家長の後裔を称した。 == 脚注 == 〔 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「斯波家長」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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